住む部屋の条件は、なんといっても明るさを一番に重要視します。
そして、自然光の恵みいっぱいの空間がとてもすきです。
この逆で、「暗い」場所に敏感になってきたように感じてもいます。
この「暗い」は自然光の影響や電気の明かりも関係しているけれど、
それだけではない「暗さ」に対して、最近のわたしは見えないなにかを察知して感じてしまうみたいです。
先日面接で訪れたお店で感じたように、昨日訪れた場所も同じような「暗さ」を感じ取ったわたしは、頭痛がする頭のぼんやりも拍車をかけて、”この場所にはいられない” と感じることが多くなった気がしている。
空気なのか波動なのか、なにを感じ取っているのかうまく説明できない。
でも、確実に見えないなにかを自分だけの本能的直感が見たような、そんな感覚みたいに。
「暗い」といえば、
2017、2018年あたりで訪れた東欧の旅を思い出す。
ヨーロッパといえば、フランス、イギリス、スペイン、ドイツ、ベルギー、イタリア、オランダ、ポルトガル、デンマーク、スウェーデンと王道所の地は踏みれたことはあったけれど、東欧は避けていた。理由は「暗い」印象があるから。
そんな思い込みから抜け出すようにと、背中を押されるように立て続けに東欧の地へ旅立ちました。
年末年始で訪れたチェコ、夏に訪れたラトビア、リトアニア。このときは残念ながら時間の都合でエストニアには寄れずバルト三国横断まではできなかった。
実際行ってみて、パリやロンドンなどに比べると、たしかに暗かった。
だけど、当時のわたしにはこの暗さは最近敏感に感じる不安でここにいられなくなるような「暗さ」とは違い、陰陽の陰の側面のような、人間特有の温かみがある哀愁の「暗さ」のように受け取っていたように思う。
中でもリトアニアの暗さは印象深い。
エストニアは見ていないけれど、リトアニアにはバルト三国の中ではラトビアとも違う暗さがあると思っている。
この空気感は、1918年に独立宣言をした歴史背景がいまも色濃く街に残っているからなのかもしれない。
もう一回これらの東欧に行きたいかと問われたら、行きたいと答えます。
ということは、わたしはこういう「暗さ」は向き合えるということなんだ。
ニュースを見聞きしているとき、いま東欧で起こっている出来事と、この旅で感じた「暗さ」がたまに脳裏で重なります。
太陽が燦々と輝く、目が開けられないくらいの明るさは、理由なしに吸い込まれずっと一緒にいたくなる。けれど、この宇宙という大地では、必ず「暗い」時間はやってくる。
その「暗さ」の質に、実はわたしの人生の選択肢として深い意味があったのかもしれないと、敏感な感覚に出会ってからは思う。実のところ、前からわかっていたのではなく、いま書いていて気がついたのだけど。
「暗さ」の種類。
「暗さ」の好み。
その「暗さ」との向き合い方。
「暗さ」に敏感になったわたしは、少々厄介になったものだなあとも思ってしまう。
生きていくには鈍感がいいときもあるから。
メルカリに出品するように、一度発症した敏感さを気軽に誰かに譲ることはできないから、自分が責任を持って面倒をみるしかない。
眩しく明るくて暖かかったり、薄暗くて寒かったり。
最近の天候も、まるでいまの自分みたい。
<本日の診断>
冬に太陽が滅多に顔を出さないヨーロッパの国々では、この冬の期間になると鬱になるひとがいると聞く。そんな冬を乗り切るために、特に北欧では家の中を照らす照明にものすごくこだわりをみせる。デザインも色も形も妥協なく見える商品が多い。
照明以外でも、北欧家具はすきです。我が家にもあります。
BTSはもうすぐ暖かくて眩しいキラキラギラギラしたラスベガスに旅立つのだなと、ふと思った。
ラスベガスの太陽を、わたしはまだ浴びたことがない。
明るすぎない光もすきだし、もし経験できるのであれば、まだ見ぬギラギラした明かりも体験してみたい。
だけど、ギラギラは長い間いると、眩しすぎると感じるのかな。
自分だけの心地よい明るさと暗さを知るときがきたみたいです。