私が犬の散歩をする時、いつも見かける人がいた。
彼は大きな犬を連れており、その犬を楽しそうに見つめて歩いているのだ。通りかかる度に、私は彼に挨拶をしていた。
「どうも。」
「どうも。」
それだけの関係だった。
ある日、またいつものように散歩をしていると、彼に呼び止められた。私は少し戸惑ったが、すぐに応答した。
「どうも、今日は涼しいですね。」
「そうだね。散歩日和だ。」
そこから少しの間、他愛もない話をした。犬の抜け毛の話だとか、最近のニュースの話だとか、そういった具合だ。
それから毎日、彼と話すようになった。
話す度に彼のことが少しずつわかってきた。彼は東京のとある大学の卒業生で、在学中はちょっとした政治活動に参加していたそうだ。その時の話をよくしてくれた。ある時は政治の話、ある時は近所の病院の話、ある時は受験の話…。いろいろな話を私にしてくれた。
どんな話をするときも、彼は楽しそうに話す。私はそれを、ぼんやりと聞いていた。きっとどれも楽しい思い出なのだろう。
彼の犬も彼と同じように明るかった。私の犬が近寄ると、尻尾を振って鼻先を近づけるのだ。私の犬も、最初の頃は嫌がっていたが、毎日会うにつれて慣れてきたようで、そういった様子は見せなくなった。
私は毎日散歩に行っていたが、私は少し忙しくなり、次第に行く頻度は減っていった。
1週間振りに散歩に行くと、久しぶりに彼に会った。少し痩せているようだった。私はいつものように挨拶をし、体調は如何ですかと聞くと、彼はなんでもないように笑い、逆に私を労ってくれた。
「もうじき、桜が咲く頃だね。ここらじゃ、あまり大きな木は無いが。」
「神社の辺りなら、綺麗に咲くだろう。その子も連れていってあげなさい。」
彼はそう言うと、犬を連れて帰って行った。その言葉が妙に嬉しかった。必ず連れていってやろう。そう思った。
その日以降も私は忙しく、あまり散歩には行けなかった。代わりに行っていた母に彼のことを聞くと、変わらず元気そうにしているとのことだった。
ところが、彼はいつの日か姿が見えなくなった。日課であったはずの犬の散歩は、彼の妻が行くようになっていた。彼女は彼とは違い、いつでも暗い顔をして歩いていた。私はいつしか挨拶もしなくなった。
冬も終わりに差し掛かった時、彼の訃報を聞いた。
その後、彼の家は建て替えられた。その家の庭には、彼の犬が繋がれていた。それを見た私は、思わず声をかけた。
「どうも。」
彼の犬は、こちらを振り向いた後、玄関の方に向き直った。
そこはいつも、私と彼が話していたところだった。私の犬は何かを察したように、ただその場を離れようとした。
春が、すぐそこまで来ていた。じきに、桜が咲く頃だった。