本願寺第11世顕如上人が織田信長公との戦いで、本拠地としていた

石山本願寺で籠城戦を展開している顕如上人の為、本願寺支援に

向かった毛利水軍と阻止をしようとする織田水軍が、二度も

木津川河口で合戦を行ないました (* ̄0 ̄)/ オゥッ!!

 

天正4年の戦いで、織田水軍は毛利水軍の炮烙や火矢によって

完敗し、毛利水軍の本願寺への補給を許してしまいました。

 

この戦いで大敗を喫した織田水軍は、炮烙や火矢が効かない

『鉄甲船』を6隻建造し、天正6年(1578)に再び木津川

河口で毛利水軍との合戦で毛利水軍を撃破し、

大坂湾の制海権を握り石山本願寺を

開城放棄させるに至りました。

 

 

 

合戦が行われたのが現在の木津川水門から少し南に

下った所と府立図書館で教えてもらい、

やって来ました木津川水門。

 

 

木津川合戦が行われた天正年間より170年後の宝暦6年

(1756)に作成された浪華往古図によれば、丸印の

上方に姫島(大正区と成る元の島)が記され、

其の下部が木津川河口と推測。

 

 

現在の大正区の地図に当てはめるとこの位置になるようです。

地図上の赤い印のところが木津川水門です。

 

 

 

上記の付近で合戦が行われたと思われます。

 

 

大正区役所前から大阪シティバスに揺られて

南恩加島一にやって来ました。

 

このあたり木津川合戦が行われたころは海の底。

 

 

合戦場の面影は皆無 ( ;∀;)なんですが、

バス停の西側にある亥閣公園付近に大阪俘虜収容所が在りました。

 

 

第一次世界大戦で中国にいたドイツ兵捕虜760人が、

大正3年(1914)に施設内に収容されていました。

 

今では面影もなく公園と動物霊園に代わっていました。

 

 

仕方なく南に下り

 

 

ループ橋の手前を東にいくと (´・∀・`)ヘーェ

 

 

千本松渡船場に出るんですが (* ̄0 ̄)/ オゥッ!!

 

 

幕末時代に描かれた『木津川口甚兵衛の小家』初代貞信(画)

(大阪府立中之島図書館蔵)

 

千本松渡船場は幕末時代こんな感じの所だったんですねぇ。

今では工場だらけなんですょ ∔;つД`)∔

 

 

なんて嘆きながら千本松大橋の橋詰にやって来ました。

 

 

 

え    え   え  え え ~ 

 

 

 

このループ橋歩いて上るん (・・? 

 

Σ(・□・;)

 

ハイ

 

 

 

 

 

 

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