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今日のコトバ
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私は国民の気に入らない政策もやる。
~石橋湛山~ 『戦う石橋湛山』 (東洋経済新報社)より
東海林さだお氏の提唱する 「ドーダ学」
「もっとコロッケな日本語を」をいう本に「ドーダな人々」という欄あり
「ドーダ学」は、人間の行うコミュニケーションの殆んどは、「ドーダ、おれ(わたし)は、凄いだろう。ドーダ参ったか?」という自慢や自己愛の表現であるという観点に立ち、社会のあらゆる事象を分析していこうとするアプローチである。
いやいや自分はそんな「ドーダ」という自慢みたいなことをしないよという人も安心するのは早い。
こういう「謙虚」や「礼儀正しい」人についても、「謙虚であるこんな自分、ドーダ?」「文句も言わないこんな自分、ドーダ?」
「ドーダ」とは、「自己愛に源を発する全ての表現行為」と定義している。この表現形式には、色々なパターンがある。
ストレートなドーダは「陽ドーダ」、ひねくれたものは「陰ドーダ」。外向きのドーダは、「外ドーダ」、自らの内に求めるのを「内ドーダ」。
「自分は有名人を知っている」というのは、「有名人は偉い、偉い有名人を知っている私も偉い、ドーダ参ったか、もっと私のことを崇め奉れ」という自己愛の表現で、「外ドーダ(お手本ドーダ)でかつ陽ドーダ」ということになる。
「最近、忙しくて、寝てないんだよな」というのは、「寝ないで働いている俺って、凄くない?ドーダ参ったか?」という表現であり、これは「内ドーダの陰ドーダ」(忙し自慢ドーダ)。パンツみせているヒップホップなニイチャンは、「トレンドにのっている俺って、とってもイケテル、ド~ダ」ということかしら。
世の中、よくよく見れば、「ドーダ」で溢れかえっている。
著者のいうには、自己愛とドーダの現れ方は、時代によって大きく異なる。ある時代では、アカラサマに、ある時代では、非常に微弱に。
「ドーダの日本史」で引用されている17世紀フランスのラ・ロシュフコーの「箴言集」にも の自己愛についての箴言:
自己愛は天下一の遣リ手をも凌ぐ遣り手である。
自己愛の国で人が発見したことがどれほどあるにとしても、まだそこには未知の土地がたくさん残っている。
(「ラ・ロシュフーコー箴言集」二宮フサ訳、岩波文庫)
どんな人間でも自己愛は存在し、どのよう表現にも必ず表れざるを得ない。
