Kiki mundano cotidie

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個人的な、独り言です。
趣味とか、趣味とか、趣味とか・・・たまに、他のことも。
あくまでも独り言なので、コメント等は受け付けない方向で・・・。

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ライブ先日、地元の県民会館で、氷室さんのライブがあった。

氷室京介ツアー 2014 25th Anniversary TOUR GREATEST ANTHOLOGY -NAKED-

久しぶりのライブツアーなので、勇んで参戦してきた。

長いことライブに参戦してきたが、今回は、今までで一番前の席で見ることができた。

3列目の左寄り、ギタリストのYTさんの前。

どのくらい近いかというと、教室で教壇に立つ先生よりも近い。(わかりにくいかな?)

氷室さんが最初に出てきた時に着ていた黒のジャケットに、ごく細いシルバーのラインが入っており、その微かなきらめきが見えるくらいだ。

当日の氷室さんは、黒のタンクトップにジャケット、黒いストール、レザーの切り替えがあるジョッパーズパンツ。

長いロザリオとオニキスのネックレス、同じくオニキスのブレスレット。

相変わらず、かっこいいなー。

たまたまだけれど、わたしもストールとクロムハーツのネックレスをしていったので、ちょっとうれしかった。

わたしは電子チケットで入場したのだけれど、フライヤーと一緒にアニバーサリーチケットをくれた。

これは嬉しい。

電子チケットは、たしかに違法譲渡を防ぐには有効かもしれないが、わたしのような一般のファンからすれば、紙チケットの半券は思い出の品物なので、形で残るものがあるのは、本当にありがたかった。



さて、ライブだけれども。

ステージ上には、6枚の手前に湾曲したパネルの列があり、スクリーンになっていた。

その手前に、縦横に8本の網状の素材でできた角柱が置かれており、LEDライトが仕込まれていた。

そして、観客。

会場に着くまでは、周辺があまりにも静かだったので、もしかして中止にでもなったんじゃないかと心配したが、そんなことはなかった。

大人のファンが多いから、落ち着いているのだね。

でも、ライブが迫れば、相変わらず、わたしの地元は熱い!

開演5分前から、スタンディングで手拍子と氷室コール。

そのせいか、ほぼ時間ピッタリにライブ開始!

ほとんど目の前にいる氷室さんの、細かな表情や、身体の動きが本当によくわかる。

ここまで近いと、逆に氷室さんしか見ないので、全体の演出とか、後ろのスクリーンに映っていた映像の記憶があまりない。

その代り、氷室さんの一挙手一投足、全てを目に焼き付ける勢いで楽しんでしまった。

ごくたまに、氷室さんの見ている景気をわたしも体験したくて、後ろを振り返ってみた。

会場全体がゆれて、みんな笑顔だ。

舞台の役者さんが、よく「お客様の満開の笑顔を見るために、頑張っています」みたいなことを言っているけれども、初めて実感できたなぁ。

「あぁ、これのことなのかなぁ・・・」って。



今回のライブでは、氷室さんのMCがたくさんあった。

それは、去年あった不幸な事件。

氷室さん本人にはなんの関係もない、1人の「自称・ファン」によって引き起こされた、あの事件について、氷室さんはたくさん話してくれた。

重苦しくならないよう、きっと気を使っていてくれたのだとは思うけれど、でも、その後ろからどうしようもなく溜まっていたフラストレーションを、感じてしまった氷室さんの言葉。

心血を注いで作り上げてきた楽曲が、使えなくなってしまったこと。

肉親が、怪我をしてしまったこと。

実家のご近所に迷惑をかけたことに対して、氷室さん自身は「チマチマした社会人みたいなことをしなくちゃらならくなって」と自嘲気味に言っていたけれど、痛切に責任を感じていたんだろうと思う。

それから、わたしたちファンは楽しませてもらった「氷室京介ぴあ」について、実は氷室さん自身はあまりあの本自体に満足していない様子がうかがえた。

作り手との、意識のすれ違いがあったのか。

いずれも冗談めかしてはいたけれど、セルフプロデュース意識の高い氷室さんからすれば、もう少しプロらしい仕事をしてほしかったのじゃないかな。

そんな、氷室さんの「少し弱気な部分」も垣間見られた。

逆にファンの前だからこそ見せてくれたのだと思う、そんな部分に、ちょっと感動してしまった。

2回のアンコールを含めて、2時間余りの間、声がぶれることもなく、動きが鈍ることもなく、突っ走ってくれた。

そして、わたしたちもついて行った。

最後には、ステージ上も、客席も最高の笑顔になれたライブだったと思う。

だからかな、Facebookで「最絶頂の盛上り!!」って書かれていたのは。



ところで。

今回、これだけ前の席になって判ったことが1つある。

今までは、ステージからピックやら、ペットボトルやら、スティックやらが投げ込まれて、それを受け取る人をうらやましく眺めていた。

けれども、実際ステージ上からモノが飛んでくるって、怖い!

ドラムスティックの1本は、わたしの斜め後ろの人が受け取っていたけれども、自分をかすめて飛ぶ木の棒は、恐怖以外の何物でもなかった。

客席に飛んできて大丈夫なのは、特殊効果のリボンとか、紙ふぶきくらいだと、つくづく思った。
相棒Ⅲ5月の第2日曜日は母の日だったのだが、あいにく当日は仕事だった。

それで後日、母が見たいといっていた映画を見て、食事をごちそうすることにした。

その時、見た映画が『相棒 –劇場版Ⅲ-』だ。

『相棒』シリーズはわたしも好きなので、もちろん楽しみにして行った。

今回の映画は、八丈島から船で40分の位置にあるという、個人所有の「鳳凰島」で起こった“事故死”が発端となる。

それを調べてほしい、との甲斐警察庁次長からの依頼で島へ渡る特命係の2人。

島には元自衛官たちにより作られた民兵組織があり、軍事訓練などが行われていた。

その軍事訓練を受けていた岩代という男が、馬にけられた事故で死んだという小さな新聞記事。

そこから、その民兵組織が公安の観察対象ではあるが、自衛隊関係者の支援もあるため、表立って警察が「事故」と断定されたものを穿り返すのははばかられる。

そこで、普段から横紙破りをしている特命係に、本当に事故なのか真相を探れという依頼を、2代目・相棒の神戸くんが言いにやってくる。

神戸くんが特命にいるのは、感慨深いものがあるなぁ。

移動の理由が、理由だけにね。

島に渡った特命係の2人は、島の地権者であり、民兵組織の支援者である若狭や、神室をリーダーとする民兵組織のメンバーから事情を聴き、捜査を始める。

一方、都心でも、彼らを支援している(はずの)自衛隊関係者などの様々な思惑が見え隠れする中で、民兵組織には、別の容疑がかけられていることが、判明してくる。

自衛隊内部から持ち出された天然痘ウィルスが、密かに彼らの手に渡り、非合法な生物兵器がつくられているのではないかという、嫌疑。

そこへ、警察の介入を恐れた自衛隊の特殊部隊の急襲と、証拠隠滅。

さらに、その裏をかく神室たちと、それすらも見通す杉下警部の洞察力。

それぞれが国を想い、国防というものを憂えた時、それぞれが決断をした結果としての「殺人」と「非合法兵器」という選択に対する考えは、どこまでもすれ違う。

いや、平行線をたどるのだろうか。

そして、甲斐次長と綿貫防衛相防衛政策局次長補の策動が、最後に明らかになる。

彼らの目指すものは、究極のシビリアン・コントロールなのだろうか。

彼ら自身が、権力を持つ側であり武官(警官は厳密に言えば違うだろうが、武器所持が許されているところから考えれば、武官に含めてもいいのではないかと思う。)だということを、判った上での行動なのか。

どことなく、うすら寒い気分になった。



今回もまた、完全に事件は解決しない。

無論「事故死」だった岩代は、杉下警部により「殺された」ことが判明する。

そのトリック(というほどのものでもないけれども)や、犯人がそうした理由も、説明される。

正直なところ、動物を利用した証拠のねつ造は、気分がよくないものがあったなぁ。

だが、しかし。

自衛隊内の誰が、ウィルスを持ち出したのかが判明していない。

そして、すべての事件の主犯である神室が、それが誰かを明かすことはないような気がするのだ。

『相棒』は、それぞれの正義、というものをいつも問いかけている気がする。

今回は、国防という現実の日本の現状とリンクした問題提起がされている。

神室が東京拘置所の面会室で、特命係の2人に語った国防についての言葉は、一瞬うなずいてしまいそうになる。

国家レベルで考えれば、だれもが利己的になるのは当然だ、と思いがちだ。

「殴られたら、友人が代わりに仕返ししてくれると思っているのか」という言葉は、現状の日本に当てはめれば、胸に重く響く。

だが、それは相互不信に基づいた世界観だと、わたしは思うのだ。

今の世界では、もしかしたらそのような考え方が現実的なのかもしれない。

それでも、人は過去の間違いから学ぶことができるのだと、信じたい。

核兵器などを持たずとも、生物・化学兵器などを使わなくとも、問題を解決し、自分を、自分の大切な人を守ることができるのだと。

あの震災の時、あんなにも協力し合って、お互いを守り助け合った人々の姿を、わたしたちは知っているのだから。



相棒パンフレットころで、この映画では、『相棒』には珍しく、役者さんの“使い回し”があった。

ちゃんと役名がある登場人物の役をした俳優さんを、別の役で使うのは珍しいような気がする。

シーズン10・第1話「贖罪」で、冤罪事件を隠蔽した元裁判官、大森誠志郎役の吉田鋼太郎さんを、栗山朔太郎議員役で再び起用したのだ。

たまたま、つい先日、再放送があったので気が付いたのだけれども。

これは、そっくりな人、という設定でいくのだろうか?
メサイア 銅ノ章さて、今度は、舞台「メサイア-銅ノ章-」について。

こちらは、原作と同じく、海棠鋭利(かいどう・えいり)と御津見珀(みつみ・はく)がメインの話だ。

映画の話から1か月後の設定らしいが、ここでは“評議会”というテロ組織との戦いを通しての、もう1組のメサイアの絆づくりのお話。

映画と舞台では、脚本家が違うためか、キャラクター造詣がちょっと違うが、大きな違和感は感じなかった。

しかし、原作のキャラクター造詣との相違は、やはりある。

海棠鋭利がずいぶんと感情豊か、というか激しいなぁ、ちょっと。

舞台という表現の場だからかもしれないが、公安のスパイ候補なんだから、もうちょっと冷静になれ、と言いたくなる。

だが、自分のメサイアである御津見珀への不満を、司馬柊介にぶちまけるシーンの掛け合いは、舞台ならでは、という感じがしてなかなか面白かった。

海棠鋭利役の松田凌くんは、滔々としゃべる場面になると、早口になってしまうことがあるのだが、ここでは、セリフがよく聞こえて一安心したものだ。

それはともかく。

舞台でも、メインとなる2人が、なぜサクラになったのかが描かれている。

その理由は、ほぼ原作通りだ。

家族を何者かに惨殺され(原作では、これがストーリーの1大要素なのだが)、混乱の中で必死に逃げ出し、力尽きて行き倒れた海棠鋭利は、コリアンマフィアのボスに拾われ、スレギ・쓰레기(ゴミ)と呼ばれていた。

だが、彼にとって「ゴミ」とはそれほど悪い意味には捉えられていなかったように思う。

「ゴミ」から「ゴミでないもの」へなっていく、その出発点としての、希望を含んだ呼び名だからだ。

しかし、舞台の海棠鋭利には「ゴミにすらなれなかった」というセリフがあり、そこには「希望」のニュアンスが感じ取れずに、やや違和感を覚えた。

一方、御津見珀は薬物中毒の母親と、ヒモの男との生活の中で、兄と2人で支え合って生きていた。

だが、ある日、その男を殺してしまったことにより、兄と別々の生活をすることになってしまう。

原作では、双子の兄だった御津見琮(みつみ・そう)が、少し年上のように描かれていた。

そして、兄は北方連合のスパイとなっていることを、一嶋係長から聞いているはずだ。

また、自身のかつてのメサイア2人(原作では、さらに現地協力者3人)を殺したのも、兄だと判っていた。

その、理由とともに。

にもかかわらず、舞台での御津見珀は兄が北方連合で生きており、自分のもとに来てほしいと言っていると告げられて、茫然自失となってしまう。

自分のメサイア、鋭利が瀕死の重傷を負ってしまうほどに。

これは、どうも納得がいかない。

5年もの間「マル校」に在学し、単独任務をこなすほどの経験を積んで、ただ「メサイアがいない」という理由で卒業できないだけの珀にしては、ちょっとお粗末なのではないだろうか。

他にも、“G”と呼ばれる「薬物で痛覚を消し、治癒能力を高めた人間兵器」が出てくる。

それを倒すために、アクションシーンが続くわけで、それは俳優さんたちにとっても、作品にとっても見せ場だろうとは思う。

だが、「頭を攻撃すれば、いいんじゃないの?!」と思うのは、わたしだけではないと思うのだけれども。

いくら「致命傷を負っても、失血死するまで動き続ける」という設定だとしても、脳が破壊されれば、生物として動けるわけがないのだから。

武器を選べば、外傷が目立たず脳や脊髄を破壊して動けなくすることができることぐらい、習っていないわけがない。

また、劇中で「返り血を浴び続けよう」と言っているけれども、サクラの“禊ぎ”は基本的には、自然死、事故死、病死に見えなければならない。

殺しました、という死なせ方は失敗を意味するはずなのに。

映画と同じく、突っ込みどころは色々とあるは、ある。

だが、五条颯真と司馬柊介のメサイアとしての絆を見て感じることで、自分たちの絆を作っていく主人公2人の姿は、見ごたえがある。

終盤の、鋭利が瀕死の重傷を負った後の「未来の約束」のシーンは、好きなところだ。



この舞台には続編があり、DVDが発売されるそうなので、見てみたいと思っている。

わたしはこのシリーズは「鉄の掟に縛られたサクラ」の物語だと思っているのだ。

サクラは、「チャーチ」について、沈黙を守らなければいけない。

サクラは、「チャーチ」を出たら、2度と接触してはならない。

サクラは、任務に失敗したサクラを、救出してはならない。

サクラは、友人や恋人になってはならない。

ただ、学生時代にコンビを組んだメサイアだけを唯一の例外として。

だからこそ、彼らは必死で生き続ける。

いつか、自分のメサイアを助けるときのために。

いつか、自分のメサイアが助けに来るときのために。

そんな機会は来ないかもしれない、2度と会わないかもしれない自分の“半身”のために。



しかし、8月の舞台「メサイア-紫微ノ章-」は、“評議会”の人間が主人公の物語だそうなので、あまり触手が動かない。

e+(イープラス)から何度もお知らせが来ているのだが、どうもチケットを買う気になれない。

できれば、その次の舞台では、本筋に戻ってほしいものだ。

せっかく、好きな俳優さんたちがたくさん出ている作品なのだから。
メサイア 表紙以前、古書店で「メサイア 警備局特別公安五係」という、高殿円氏の本を入手した。

わたしはある時期、公安警察についての小説を読み漁っていた時期があり、そのアンテナに引っかかった内の1冊だ。

公安警察モノというと、麻生幾氏の「外事警察」のような陰鬱な雰囲気の小説が多い中、ある種のパラレルワールドを舞台としたFSというかファンタジーだったので、驚いたものだ。

世界の改心(ワールド・リフォーミング)と呼ばれる条約が締結された、超軍縮時代。

その水面下で、熾烈な情報戦が繰り広げられている。

そんな世界の中の日本を舞台に、国籍も、戸籍もすべて抹消され、国のための殺人を“禊ぎ”と称して行う、対スパイ殺人権をもつ特別公安五係、通称“サクラ”の候補生である主人公たちの活躍を描く物語だ。

小説そのものは、スパイ小説の形を借りたダークファンタジーとでもいうのか、現実世界とはどこか違う、春先の薄明かりの中のような世界観が広がっており、読み応えがあった。

まぁ、やや強引というか、飛躍を感じる部分がなくはない。

だいたい、どういう切っ掛けで、世界の改心が行われたのかの説明がない。

軍事力を縮小・凍結・放棄する、という行為がどれだけ困難を伴うのか。

また、いかに軍事力を安易に使おうとする勢力があるかについては、連日報道される世界情勢を見れば明らかだと思うのだが。

さらに言えば、巨大な利益をもたらす軍事産業と、その産物を消費する軍がなくなれば、死活問題になる国なり地域なりが出てきそうなものなのだけれども・・・。



閑話休題



その小説を原作(いや、原案かな?)にした、舞台と映画があると、偶然知った。

映画「メサイア-漆黒ノ章-」と舞台「メサイア-銅ノ章-」の2作品。

両方ともDVD化されているので、早速取り寄せてみた。

内容の時系列では、映画→舞台だそうなので、その順番で見てみた。



…色々突っ込みたいところは、多々ある。

あるけれども、それ以上に、面白いじゃないか!



映画に関して言えば、「その目立つ制服で外に出るな」とか「スナイパーライフルをむき出しで持って歩くな」とか「変装用のマスクとかの証拠物件をぶん投げていくな」とか「そのでかい拳銃を片手でぶっ放して、脱臼もせず吹っ飛ばされもしないとは、何者だお前」とか他にも色々いろいろ。

あるには、ある。

だけれども、そのことは別にして、この世界に浸ることが楽しい作品だ。

ややセピアがかった、暗い画面。

非現実的な内装の「チャーチ」と呼ばれるサクラ候補生たちの暮らす建物。

黒に金のラインが入った、甲冑を思わせるロングコートのような制服。

そして、普段はほとんど舞台でしか見ない俳優さんたちを、映画で見るという不思議な感覚。

それらを含めて、『おもしろい』と感じた。

登場人物の中で、一番原作の人物像に近いのが、サクラ候補生たちが学ぶ「マル校」と呼ばれる養成校の学園長、一嶋晴海(いちじま・はるみ)だろうか。

できれば、原作通り甘い物好きの面を見たかったのだけれど。

ホワイトココアや焼き芋をほおばる姿を、演じた中原裕也さんの端正な演技で見たかった、とつくづく思う。

一方、原作ではチラリとしか登場しなかった五条颯真(ごじょう・そうま)と司馬柊介(しば・しゅうすけ)が、映画ではメインなのには驚いた。

もともとこの原作は、「メサイアプロジェクト」と称してドラマCDやWEB小説から始まったものらしく、もしかしたらドラマCDではこの2人がメインだったのかも知れない。

現在は入手困難な品物なので、内容は知るべくもないが。

映画では、メサイアと呼ばれる「マル校」在校時代にコンビを組む2人の、絆づくりを中心に話が進む。

互いのメサイアを同じ任務で失った者同士が、メサイアを組むように命じられ、反発や戸惑い、亡くしたメサイアへの惜別を乗り越えて、真のメサイアへ、サクラへと成長していく物語だ。

主人公2人が、なぜサクラになったのかも描かれている。

それにしても、元小学校教諭で、児童院の職員に転職した五条颯真はともかく、元国際検事の司馬柊介が若すぎやしないかと思ったのだが。

わたしが知る限り、国際刑事裁判所(ICC)のファトゥ・ベンソーダ検察官は初の女性国際検事だが、1961年生まれの53歳。

また、日本では司法試験の最年少合格者が20歳だそうなので、司法修習が終わり、検察に任官して国際検事になるまでのキャリアを積んだら・・・いくつになるのかな・・・?!

まぁ、こんなところでリアリティーを追及しても仕方がないかもしれない。

任務に失敗したサクラを、国は助けない。

他のサクラも、助けてはならない。

ただ、学生時代にコンビを組み、卒業後は会うことすらないというメサイアだけを唯一の例外として。

そういう設定を納得させるには、痛々しさすら感じる美しい若者たちの方がよかったのだと思う。



思ったより、長くなってしまった。

舞台の感想については、また今度。
サクラ久しぶりの更新、となってしまった。

気まぐれな独り言なので、これからも気まぐれな更新になるだろうなぁ・・・。


ところで。
  
今年も、桜がきれいに咲いた。

我が家の裏にある山は公立の公園で、桜の名所と自治体のHPに載っている。

そのためか、時期になると車が行列していて、外に出ることすらうっとうしいのだが、時間帯をずらすと空いているので、朝夕に花見をすることにしている。

花見といっても、毎年、花の下に座って「ぼうっ」とするだけなのだけれども。

けれども、今年はちょっとしたものを持参した。
サクラアイス①
ハーゲンダッツが限定で出した、サクラのフレーバーアイス。

本当なら、ソメイヨシノの時期に食べるべきなのかもしれないが、何しろ寒くてアイスを食べる気にならなかったのだ。

ので、気温がようやく上がってきた八重桜の時期まで、とっておいたものだ。

だいたいが、普段からアイスを食べるのはほぼ夏だけの人間なので、春先にこの商品が出た時に、桜の下で食べようと思ったものの、2か月ほども冷凍庫で出番待ちだったのだ。

サクラアイス②中身はこんな感じ。

上にかかったソースに、ちょっとした塩気があり、中にチェリーソースがリボン状に入っている。

なかなかおいしいけれども、やっぱりカップアイスを1個食べるには、気温が低かったようだ。

家に帰って飲んだ、熱い紅茶が実においしかった。




昨年から、今年にかけて、何かとサクラに縁のあることがあった。

日本人は、桜が好きなんだろうなぁ。

自分も含めて。

そのことは、また今度の更新で。