ベルイマン監督の神の沈黙三部作より、”沈黙”  感想文その2 | ぞうの みみこのブログ

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このように、あらすじだけ読んでいただいたら、妹のアナはなんと冷酷な性悪女なのだ、と言う事になるかもしれない。

知的で教育もある姉のエスターだって完璧でない。病気なのに、ホテルでお酒を浴びるように飲んで、タバコもすぱすぱ。

二人の断片的な会話から察する事が出来るのは、奔放な妹をいつも支配して、監視していた彼女の姿。

妹に対して、なにかあれば”お父さんに言いつけるわよ”という強圧的立場。

アナは親にあまり愛されずにそだって、自分よりできのいい姉とのコンプレックスや彼女からの暴言で今まで痛く傷ついて来たようでもある。

そんなこんなで、男性との刹那的な関係でしか自分をみいだせない女性になってしまったのか。

文字どおりこの映画を観察するとそのようなことも言えるが、それと同時にこの作品はいろんなメタファーに満ちているようにも見える。

頻繁にこの姉妹の会話に出てくる父親はファーザー、すなわちキリスト教での神を暗示しているのかも。そうしてエスターの職業は翻訳者。ことばを人々に伝える役目。神の言葉を一般の人々に伝える聖職者か何かの暗喩か。

 (こんなシーンを見ると、姉と妹のキャラクターでさえ、一人の人間に宿る二つの側面の暗喩にも思えますね。)



アナは映画の中で姉の事をこのように批判している。

”あなたは教育があって難しい本を何冊も訳して来た。昔はあなたを尊敬していたが、今は違う。私を憎んでいるくせに、自分のことも憎んでいるくせに”

うわっつらの言葉だけで神の愛についてお説教する聖職者を意味しているようにも見える。

一方、言葉の通じないバーテンダーと行きずりの関係を持ちながら、それを知ったエスターに優越感を感じていると思いきや、その優越感が自分への嫌悪感に変わって行ったのか、すすり泣きに転じる。

となると、坊やのヨハンはキリストのメタファーなのだろうか。かれが唯一すべての登場人物とかかわり、あたたかい交流をした人物である。

母を慕い、その一方病気の叔母に人形劇を見せてあげたり、

ホテルのマネジャーの身振り手振りの話につきあったり、言葉が通じないが、子供の心を持っているかに見える小人劇団の役者達と遊んだり。

りこうそうな子だ。でも彼とて聖人ではない。深い所で病んでいる。まだ子供故、言葉にできないだけだ。小人俳優と遊んだ時以外は、こどもらしい笑顔をけっして見せない。母や叔母の前でさえ。

面とむかっては、オーバーアクションで自分を愛してくれているようにふるまう母も、やってることは自分を平気で置き去りにしたりしてる、母の行動にも疑惑を感じている。世の矛盾を言葉でなく,全身で感じ取っているように見える。

一人遊びで描く絵はまるで得体の知れない怪獣の様。病気の叔母を喜ばせようとみせた指人形劇は、一方の人形がもう一つの人形をぼかすかなぐって懲らしめるという筋書き。

どうしてその人形は歌ったりしないの?との叔母の質問に、”この人形は怒っているから” と答える。

自分の中で沸々とわく怒りや疑問を指人形に投影しているかのように。

そうしてとうとう母親がホテルで見知らぬ男と部屋に入って行くのを目撃したのだ。ことばをまだ十分に持たない子供だから彼はまたしても沈黙している。こころに宿るかなしみはいくばかりか。

主要登場人物、三者がそれぞれ満たされずに傷をおって生きている。そうして彼らを取り巻く環境も生への不安に満ちている。言葉の通じない異国。戦争が迫っているのが街角の風景などから巧みに描写されている。

戦闘シーンこそないものの、街では普通の道路を日常茶飯事な事のように戦車が走り回る。



象徴的なシーンがあった。テーブルの上のグラスが、建物に戦車が近づいて来たときにかたかたと震えるのだ。

そのシーンだけで、特殊な状況下にくらす人々の不安を鮮明に映像で表しているようだった。

この映画で監督がほのめかした”神の沈黙”とはなんだったのだろう。

姉のエスターが映画の最後のあたりで一人ベッドの上でくるしみもがく。こんな状態で死にたくない。故郷で死にたいと。でも神は沈黙している。明確な説明はないが、病気は深刻で死が刻一刻と近づいている。彼女は結果的に異国に、妹に置き去りにされる。

沈黙する神に挑戦するかのように、懇願するかのように、ことばの通じない、人のいいマネージャー相手に彼女はベッドの上で苦しみつつ語る。

性は単なる筋肉や分泌物の活動でしかない事。孤独を語るのは無意味である事。彼女の理性はそう語るのだろう。そういいつつ、性や孤独に
人一倍悩まされているのも彼女なのだ。妹も彼女もことばと行動が矛盾している。

また彼女は言う。妹と和解したかったが、”あるとてつもないフォース(力?)がそれを妨げた”事。

そのフォースとは何なのか。

ヨハンが電車の中でエスターからの手紙を読む。なにかとてつもなく重要な事が外国語の単語を介して書かれているらしい。なにが書かれていたか、映画は明らかにしていない。

そんなヨハンの横で、暑い暑いと、またしても肉体の感覚に第一に反応する母の様子を嫌悪感たっぷりにみつめるヨハンの表情と、耳をつんざくような列車の音が効果的に使われて映画は終わる。

これらの主要登場人物とホテルのマネジャーを一瞬結びつけるように使われたのがラジオから流れて来たという設定のJ.S.バッハのゴールドベルク変奏曲。

キャラクター達がそれぞれに、この曲良いわね,とつぶやく。同じ物を同じ瞬間に美しいと思える事は一瞬の至福の時を象徴しているようでもある。

物語は悲劇的に終わったけれど、彼女達の関係の修復の可能性はあったのだと語っているようにも思える。