人工呼吸器につながれて | 父と娘 

人工呼吸器につながれて

一連の処置が終わって、父は呼吸器をくわえたままの状態で、意識もなく、ただ心臓が止まるのを待つ状態になってしまった。

医師が病室を去り、看護士さんの数も減っていった。

ベッドの傍らには、脈拍や血圧も表示される心電図と、バカでかい人工呼吸器の器械が置かれていた。

緊急事態だったため、いつも部屋にあったサイドテーブルなどは無造作に室外に出されていた。

その光景は、昨日亡くなった隣の病室の見ず知らずの人と同じだった。


覚悟していたことだけに、妹も私も必要以上に取り乱すことはなく、案外早く落ち着きを取り戻した。

少し落ち着いて、父が急変した時のことを詳しく聞いた。


どうやら急変する直前まで会話をしていたらしい。

朝一番に部屋に入った看護士さんは、「おはよう」と声をかけ、カーテンを開けてくれたらしかった。

また、その後急変する直前は、師長さんが身体を拭きに来てくれている最中だった。

父は、全身に冷や汗をかいていて、調子が悪そうだったということだ。

師長さんが父の顔を拭いてくれていたそうなのだが、あまりのしんどさに”今は顔を拭いてくれるだけでいい。夕方、お兄ちゃん(私の叔父)が来る前にもう一度拭いてほしい。落ち着いたらもう一度お願いするから。”というようなことを言っていたらしい。

そして、その時大便をしたくなったらしく、いつもは便器まで頑張って起き上がって移動するのだが、あの時はしんどくてそれすらも難しかったので、父は便器まで行きたがったそうなのだが、師長さんが”しんどいんだったら、無理せずおむつの中にしてしまいましょう。後で取り替えますから。”と言ってくれた。

その直後、急変し、呼吸が止まったということだ。

排泄の時に、力がはいってしまったのが引き金となったのだろう。


”急変”といっても、なにがどうなったのか、現場にいなかった私には全くわからない。

すぐに意識がなくなってしまったので、恐らく苦しんだ時間はほんの少しだったのではないだろうか。

と、今では冷静にそう分析できる。

父が低血糖で意識がなかった時も、父はその間のことを全く覚えていなかったので、意識がないと痛みや苦しみも感じなくて済むということはわかっていた。

しかし、器械に繋がれた父を見ている時は、その時どれくらい苦しんだのか、今本当に意識がなくて、苦しんだりしていないのか心配でしかたなかった。

私はようやく、”もう一度だけお父さんと話しがしたい”という気持ちよりも、このままでも苦しむ時間が少なかった幸運を感じ、苦しみがなく安らかに逝くことができることを心から祈ることができるようになった。


私は、父の意識がもう2度と戻らないこと、あとどれくらい後かわからないが、この状態のまま心臓が止まることを再び覚悟した。


少し落ち着いて、叔父、弟の会社に”父危篤”の知らせをするように妹にお願いした。

あの日は、せっかくせっかく叔父が神奈川からお見舞いに来てくれる日だったのに!

父もそれを楽しみにしていたのに!

前日も何度も叔父が何時に来るのか訊ねたし、看護士さんにも言っていたのに!

13時過ぎだったので、叔父はもう既に電車の中だった。予定通り16時に着くということだった。


14時にもなると、父の血圧も安定してきて、看護士さんは退室していった。

私と妹は、父のベッドの両サイドに椅子を置き、父を囲んだ。

私はいつその時が来てもいいように、何度も父の手を握った。

覚悟はしても、その手を父が握り返してくれるんじゃないかと思いながら・・・


父の目は、閉じたり開いたりだった。

目を開けていると、意識があるんじゃないかと思ってしまい、可哀想で見るのがつらかった。

無理に目を閉じさせても勝手に開いてしまう。

目を開けたり、時々身体がびくっと動くので、もし意識があったらどうしようと不安だった。


少し左に傾いだ顔。口からは朝方に飲んだコーヒーや、胃液らしきものがどくどくと出てきていた。

しばらくして、看護士さんがそれをキレイにしてくれた。口から出てきていたのは始めだけで、その後は口から外にでることはなかった。

落ち着いて辺りを見回すと、飴、我が家で購読しているものではない7月5日付の新聞、オレンジジュースがあって、看護士さんに買ってきてもらったようだった。

ここ最近、そんなことは一切していなかったのに、どうしてだろう。

叔父さんが来る日だったから、早く新聞を読みたかったのだろうか、調子が悪いのを低血糖の症状だと思って飴をなめたがったのだろうか。今となっては知る由もないけれど。


また、父は急変してからずっとオムツの中に大便をしたままになっていた。

排泄直後の急変だったので、どうしようもなかったのだ。

父の血圧が安定してきたのを見て、看護士さんは、”お兄さんが来る前に、落ち着いてたらオムツきれいなものに替えますね。”と言ってくれた。


気づけば数時間が経っていた。

その間、妹が席を外すたびに涙が溢れた。

少しでも会話がなくなると、父親を永遠に失ってしまう悲しみだけではなく、言い尽くせないほどの感情の波が押し寄せて”泣く”こと以外に何もできなかった。


まさかこんな突然・・・

昨日「また明日」って言ったのに。

叔父が来る日に急変してしまった残念さ、妹も同じ日に帰ってくるはずだったのだが、少し早めてくれたおかげて意識がなくなる前の二日間に会話ができたという幸運、父が長く苦しまずに済んだ幸運、父の容態は徐々に悪くなるものだとほとんど決め付けていた自分・・・

いろんなこと、本当にたくさんのことに思いを巡らせた。


いつまでこの状態が続くのか、まったく検討がつかなかった。

しかし、2日も3日も続くものではないだろうとうことで、

「今夜がヤマ」というよく言われる台詞の状態であることは理解できた。


私と妹は父を見守りながら、叔父を待った。