人のまがい | 端

あっ!


神経痛ですか、頭痛が今日もワァワァ癇癪を起こして嫌だなあと呟いてダブルベッドの上を左に右に転がっています。


懐かしさに足を取られて今日も大切な一日を、今日しかない大切な一日を、過去を振り返ることで消費してしまう愚か者です。


昔に好きだった人たちはアカになっちまったのか、飽きもせず政治の話だとか、精神論だとかを世に垂れ流している。昔好きだった人たちはバカになっちまったのか、いかに医療が危ないだとか、日本は終わっているだとかを世に伝えようとしている。
昔誰かが言っていた。「賢い人ほどアカになる」って。

どっちでもないよ、どっちでもないんだろ。
だって正しいと思うこともあればその中にこれは違うと違和感を覚えることもあるんだろう。

だからどっちだってこともないんだろ。
右だとか左だとかそんなことはどうでもよくて、悲しい思いをする人がいなくなって欲しい、って。

そうして自分の正義と誰かの正義が調和することなく戦争になっていく。


結局、戦争から一番遠い選択が「妥協」「甘受」になっていく。曲げられないものを曲げないでいると、また誰かの曲げられなかった信念とぶつかる。それに気づいた上で彼らは今日もそれに意を唱え続けている。

考えるのをやめることは逃げることだ、ぶつからないことは成長からの逃げだ、知らないふりをするということが馬鹿そのものだ、いいよ、私は先に行くからそこで一生止まっていなよ、大切な人を守るために発言しているんだ、だから今日も「戦う」んだ。
そう言って彼らは「戦争反対」と言いながら戦いに行った。それは「戦争」ではないのだろうか。
武器を、兵器を、使わぬ戦争は戦争ではないのだろうか。ペンは剣よりも強しだと彼らはまた違う誰かを刺し殺していく。


声の大きさが大砲の音より大きくなったら迎えに来てね、と子供たちが今日も壊れた塀の中。何も変わらない。銃声がしている。声は一瞬だけ聞こえてまたかき消されていく。興味の対象が違うところへ移ったからだ。声を上げる人々にもまた「流行」があるからだ。昨日まではここにあった声たちは、また違う場所で聞こえている。一過性だ。
満遍なく色んな場所で声を上げ続ける。
小さな声を拾う力とお偉い先生が言った。
小さな声は流行りの騒音にかき消されてしまっているけれど、流行りの騒音は静寂よりは目立つから勘違いしてそれを拾った。
何も変わらなかった。
何も変えなかった。
私を含めて大多数の人がそうであるのに、毎日自分のことだけで精一杯だ。

何にもしないことは、何にも考えないことは、この世界では悪である。悪でしかないんだ。
つまらない人間がすること、愚かな人間がすること、人にあらず。

なので何かをしているふりをしている。
何かを考えているふりをしている。
そうすることで人の皮を被り、紛れて消えるまで生きていくのだろう。


彼らはそんな私を愚かだと笑った。
勇気のない、馬鹿な人まがいだと。

どうなってしまうか一番高い丘の上で見ていようと、どこまでも逃げてきました。こんなとこまで逃げてきました。犯罪者かのように。

例え騒ぎに巻き込まれ一番最初に死んだとしても、争わなかったことに誇りを持って死んでいけたならそれでもいいのかもしれないと、人まがいは思ったりして。


全部リアルじゃないから言えることなのは大前提で、私は本当にしょうもない人間だよ。
それでいいよ、それがいい。
だって自分が一番なんだもの。
お前もそうでしょう?
誰か会ったこともない人のことなんて考え続けていないよ。お前がそうなように。私もそうだ。

お前がやっていることは、続いちゃいない。
続いちゃいないことは、解決することがない。

わかった上で声をあげているならそれは何て残酷なことなんだろう。


流行りのスピーカー、時代遅れの無知。
今日も今日とて戦争中。