境界性人格障害に関する専門誌から | マリアの憂鬱

マリアの憂鬱

Maria in gloomy time

石橋 通江
日本赤十字九州国際看護大学intramural research report 8, 15-22, 2010-03-31

40を超え、寛解したと思われる男性の聞き取り調査の結果。

日常生活を営み、家族もできたというこの男性、それでも身に降りかかった不幸を他人のせい、にしている感は否めない。
周りの人間はきっとイヤな思いをすることが多いだろうなと思わずにいられなかった。
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小片 富美子
長野大学紀要 27(1), 1-5, 2005-06-30 


入門編
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 國生 拓子 
日本精神保健看護学会誌 5(1), 15-22, 1996-06-01


境界例本人もさることながら、母親もまた治療を要する、という事例。
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DSM-5 作成その後の動向 パーソナリティ障害に関して
松本ちひろ 丸田敏雅 飯森眞喜雄
精神医学・54( 1 ):7-19,2012
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精神看護・7巻6号(2004.11)特集2 どうやってもうまくいかなかった「境界例」
その「しんどさ」をどうすれば乗り越えられるのか─「理解」じゃない。「先取りして信じてしまう」んだ。 瀬野 佳代 P.90-94

境界例の看護にあたるものが感じる辛さへの解として、北海道 べてるの家での対応を紹介している。

べてるの家でのポリシーは、

本人が困って自分で何とかしたいと思うまで、余計な手出しはしない

のだという。
たとえば、

自己虐待的な行動に対して,一貫してあまり心配しない

リストカットには「よく自己主張したね」「いい苦労しているね」と誉める。
これで行動化による対人操作を防いでいるのだろう。
また、

行動の責任はすべて本人が取るということが徹底されている

謝りに行く,弁償するなど,現実的に自分が対応しなくてはならないこととして自分に返ってくる。
そうやって、本人が何とかしたい、と思った時に手を差し伸べるのがべてる流、らしい。

問題行動の後始末の肩代わりは、“一見もっともらしい常識的な対応である”が,“孤立を招く対応であり,次の自己虐待を誘発するかかわりである”と指摘する。
その主張は理解できる。しかし、周囲を体験した正直な気持ちとしては、本人が悔い改めるまで待つのよりも、たとえ長期的には本人のためにもならないと知っていても、とりあえずの後始末をしてしまった方が楽なのだ。
そこを我慢し、境界例本人が困窮して思い改めるまで待ち続けるのは、並大抵の忍耐力ではできないだろう。

そこで、どうやって耐えるか、が問題になる。
答えは、「問題」と「人」を分ける、のだという。

行動化にしても、「やりたくてやっているのではない」「やりたくないのに起こしてしまう現実に、境界例本人も違和感をもっているが、それを表現することもできない」ことを理解し、「どうすれば行動化以外の方法で解決できるか」を境界例本人といっしょに考えれやると良い、という。

言い方を変えれば、自分の行動の責任を自分で取らない未発達なコドモをしつける、ことになる。しかも相手は、本物のお子様よりも成長が鈍いのだ。
家族でもない、それを職業としているわけでもないのなら、そこまで付き合う必要はない。最低限の“後始末”でお茶を濁し、できるだけ境界例との接触を少なくするのが良策だ。

同号の連載、「宮子あずさのサイキア=トリップ・42 境界例な人々 P.124-125」では
看護師自らが、境界例に”ふらふらにされ、疲弊しながらも、その一方でどこかで”惹かれる”原因を、”自分の感情をとぎすましながら、人とかかわる緊張感”と見ているのも興味深い。境界例と距離を置いて、喪失感を感じる人がいるが、これがその解ではないか、と思う。