この世界の中で、
起こった
「不快なこと」
「心の乱れること」

その間違いを正そうと(赦し、訂正しようと)、
躍起になっていたのだけど、
なんだか一瞬、心が "平安" になったと思っても、
またすぐ迷い出してる感じがしていた、最近。。

ベースには、聖霊への信頼が強くなっているのか
赦し、訂正の実感がなくても、

目の前で心の乱れる状況が起こっていても
"
聖霊はちゃんと私に分かるように導いてくれている

と、安心して静けさを感じつつ、待っていました。

そして、ちゃんと、聖霊が私に分かるように
教えてくれました、

                       ~~『大きな勘違い』~~

奇跡のcourseをずっと学ばれている方なら、
こんな間違い、勘違いはもうされないのかも知れませんが、、
最近のスピリチュアリズムからの考えが混じっている
私には、とても混同してしまいやすいところでした。

Jacim小冊子、【赦すけど忘れない】より、

質問7 出来事についての責任は?

質問者…あなたは、誰かが誰かの肉体を傷つけることはあり得ると言われました。そうだとすると、もしわたしが傷つけられたなら、その時、私は自分が傷つけられることに自分で許可を与えたということになるのではないでしょうか?


ワプニック…心のレベルでは、もちろんそういうことになります。
それはあなたの夢なのですから。
けれども、この世界における私たちの経験のレベルにおいては、必ずしもそうではありません。
たとえば、あなたが高速道路で車を運転している時、後ろの車のブレーキが効かなくなって、あなたの車に追突するということがあるかもしれません。

それはあなたの作り出している夢の一部ではありますが、

私達の経験のレベルではあなたがそれを作り出しているの
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
ではない、と私は言っているのです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
私がこのように言っているのは、
人々が自分の目の前の出来事を引き起こしているのは自分━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━自身だと考えて、罪悪感を感じたりしないように助けるた━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━めです。

  繰り返しますが、一つのレベルにおいては、もちろん、それはまさにあなたが作り出した夢であり、あなたはその夢の中でその出来事を再び経験するということを選びました。
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けれども、あなたは自分で、「これが自分自身だ」と見なしている自己に、罪悪感を感じさせない方がよいのです。
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あなたの癒されていない想念や罪悪感が、その出来事を引き寄せたかのように考える必要はないのです。
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ニューエージ系の人々のおおくは、そのような考え方をします。
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それは、じつはレベルの混同なのです。
一人の人間としてのあなたは、まったくそのことの現実化に関わっていません。

あなたの経験の中であなたの車を運転している「自分自身」と感じられる人物は、「自分以外の誰かが自分の車の後ろに追突する」という出来事を引き起こしたわけではありません。
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どこかで起こった地震や爆撃のニュースなどを見聞きして、自分がその発生に関与していると思い、それは自分で作り出した夢の一部なのだから自分はそれに責任がある、と感じるわけです。
そのように考えるとき、レベルを混同しているのです。

既に何か悪い事が起こってしまった後であれば、
助けになるのは、
「なぜ、どのようにして、それが起きたのか」とか、
「誰がそのような選択をしたのか」
などといったことではなく、

         ○○○○     起こったことを、誰と見るか    ○○○○

それについて、「なぜ、起こったのか」
「どうして起こったのか」と思い悩むなら、
私たちはそれに更なる実在性を与えていくだけです。
ということは、それを深刻に捉えているということであり、それは、私たちがすでに自我に耳を傾けているという意味になるのです。

「それを自我の目を通して見るのか、
それとも、聖霊の目を通して見るのか」

問題は、あなたが高速道路で追突されたことではありませんでした。

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「それを深刻に捉えるのか、笑うことを思い出すのか」

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....
ですから、なぜ肉体が作り出されたのか、
なぜ自分はこの世界のこの家族のもとに生まれてきたのか、なぜこうなのか、なぜああなのか、、、
と悩み苦しむことは、
自我の目的に役立つだけです。
自我はそれを大喜びします。

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「自我は分析し、聖霊は受け入れる」
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という言葉を思い出してください。

受け入れるべきことは、これが今の状況だということ。
そしてそれが〈教室〉だということです。
そして、自我か聖霊か、どちらから学ぶのか、ということです。



もっと良くなろう、幸せになりたい、
自分も、人も、救いたい、

と思うほど、見失い、墓穴を掘って、
袋小路に迷いこんでいたな~わたし、、笑😌

議論することで、「恐れの対象」に更なる実在性を
与えて、
なぜ、どうして、と、逃げ回っていた、わたし。

笑うことを思い出そお~😌

オバケを怖がっている子供のような自分を安心させてあげたい。
オバケは実は、私の恐怖心が映像化しているだけで
私に対して何の力もないのよ、と。

わたしを脅かす者も、敵も、あり得ない。
私たちは
強く、自由で、喜びながら、自分を救うことのできる
神の子。

.

また迷いこまないように、
シンプルさに、すぐ立ち帰れるように、
長いmemoを、残しておきます。

いつも導いてくださる'すべてのひとつ'に感謝して。

愛は、私が感謝の内に歩む道である。