児玉機関の知られざる部分(週刊サンケイ臨時増刊の記事 | 岩田幸雄研究

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広島の岩田幸雄について調べた記録(ログ)です

このページは1976年3月の「週刊サンケイ緊急増刊」内の記事です。

 

 

文字起ししたものも記載しておきます。

 

■初めて明かす児玉機関の知られざる部分

ロッキード事件は児玉誉士夫を抜きにしては一言も語れない。彼こそは、この事件の鍵を握る最大、唯一の人物といっていい。
その彼を語るに、児玉機関を無視できない。
ここに登場する岩田幸雄氏は、彼とともに児玉機関を創設したメンバーの一人である。これまでベールに包まれていた児玉機関とは。。。

私が児玉君と知り合ったのは昭和10年でした。
彼が帝都暗黒化計画事件(送電線を破壊し東京中を暗闇にすれば戒厳令がしかれる。そこでクーデターを起こさせる計画。未然に発覚)で豊多摩刑務所に入っていたときです。
私もある事件の受刑者で、そこにいたのですが、ある日、作業の監督をするように言われた。寒いときで、休憩の合間に日向ぼっこをしていたんです。
その頃の児玉君は周りの者から、ちょっと異端者のように見られていた。その彼が箒をかついで向こうからやってくる。
私の方から声をかけて、二人で芝生をいじりながらいろいろと話し合ったのです。
ふいに児玉君は涙をポロッと流すんだね。
どうしたのか?と訊くと、芝生の新芽をみて、胸がこみあげてきたと言う。それからお互いの付き合いが始まったんです。
児玉機関が出来たのは、昭和16年の11月です。
当時、国粋大衆党総裁をやっていた笹川良一氏の紹介で海軍航空本部長の山縣正郷中将が、早くから戦争遂行は戦艦第一主義は時代遅れであり、航空第一主義を唱え、そのため航空資材の調達を外地でやる必要があり、その任に児玉機関をあたらせることを考えたのですね。
私も、それまで勤めていた外務省の嘱託を辞めて、児玉君と一緒に児玉機関の創設に参加したわけです。

児玉機関の情報機関"岩田公館"
児玉機関の主要人物は、児玉君を頭に、吉田彦太郎、高源重吉、奥戸足百、藤吉男、私の6人で、児玉機関での肩書は無かったが、吉田君なんかは副機関長だと周りで勝手につけていた。
それでお互いの分担だが、児玉、吉田、高源の3人は主に海軍との政治折衝や、漢口、旅順など8か所にある児玉機関の支部への指令に当たり、私はもっぱら物資の買い付けのための工作責任者として従事していた。
児玉機関の本部は、上海の文路のピアスアパート内にあった。
3室を持ち、応接室と経理部門(経理部長 小田原健二)があり、ごく少数の者がいました。児玉機関の輸送部は上海のブロードウェイにあって、児玉君はその上にあるマンションに住んでいた。
児玉機関に従事していたのは、末端の者まで入れると二千人近くいたが、そのうち日本人は4~500人ほどいました。
児玉機関に海軍から当初出たお金は、年間1億円(当時の金額で)であった。
これをもとに開戦から数か月で軍が驚くほどの航空資材を集めたわけです。
最も必要としたのは航空機、魚雷に使う銅で、これは向こうの良質の銅幣(銅銭)からとった。
後は、雲母。タングステン、ダイヤ、ラジウムなど、あらゆるものを集めたわけです。
物資は上海、南京、杭州の三角地帯、あるいは香港、シンガポールなどからも集めた。あるいは、上海の外国租界の倉庫にごっそりと積まれているのにも目をつけたわけです。
どうゆうふうに物資を調達するかといえば、むこうの人が欲しがっている佐藤、塩と物々交換するか、あるいは金塊、現金で取引するのです。交換物資の砂糖は台湾から匪賊に軍団を組ませて運び、塩は日本、山東省、朝鮮から持ってこさせました。
金塊は満州で砂金から採ったものを上海で精製し、銭荘の刻印したものを使っていました。物資は思うように集まるが、問題はいかに日本まで輸送するかということです。

なにしろ、輸送機関は陸軍が押さえている。
ところが、陸軍の方は物資が思うように集まらない。そこで物資を分けるということで、輸送は陸軍があたることになった。
実は児玉機関の情報を担当していたのは別の組織ですよ。
児玉君は軍の関係もあり、児玉機関が表にたって情報活動をすることが出来ない。
そこで情報機関として私の名前をとった"岩田公館"を児玉機関と同時に発足させた。
むろん、児玉君とはお互い一体となってやっていたわけです。
いわば、児玉機関の秘密機関ですね。
この"岩田公館"には約200人の情報員がいて、ポルトガル人からメキシコ人、フィリピン人、台湾人それに10人ばかりの日本人が動いていました。
これらの情報員の中には、敵の重慶派に殺されたのもいる。情報員同士で利害が絡み、狙われることもあった。
一番厄介なのは、スパイが潜入してくることで、二重スパイもいた。だから、10人に1人の割で監視人をつけ、またその監視をする人間をも見張るようにした。
当時の我々の主な任務は、占領地外に排出している物資はどこに何があるかといった日常必需品の需給の動向とか、児玉機関に必要な情報の一切を調べる。
それらの情報に基づき、輸送機関やあらゆる掌握している権利を利用して、交換物資の砂糖、塩にしろ、こちらが物価の高低を自由にし、その利潤のサヤで、こちらが欲する膨大な物資を手に入れることが出来た訳です。
つまり、これらの任務を遂行する"岩田公館"は金を稼ぐ児玉機関のトンネル機関でもあった。

日本に着いた金塊の行方は…
彼は上海の第一線で仕事をしている意識と、こちらに軍人もいるという手前、ほとんど遊ぶということはなかった。
しかし、上海から内地に帰ると上海の前線基地と我々が呼んでいた某料亭では相当派手に彼はやっていたんですね。
それで付けられたあだ名は「児玉放棄の神、早乗り」というものでした。
次々に女性をかえての早乗りぶりから、そう呼ばれていたわけだ。
いっとき、児玉君は杭州の匪賊「紅槍会」の責任者に狙われたこともあったが、うまく彼らを児玉機関に帰順させたことに成功したこともある。
毎年、児玉機関には海軍から2億円~3億円の予算がはいるが、物資調達には、その金には手を付けず、日本で廃鉱になった鉱山の再開発とか、資材の調達に向けた。
終戦のとき、20年度の予算として2億3千万円がおりていたが、これはまったく使わずじまいで、海軍に戻そうとしたが、時期が時期で、その金は「将来の日本の再建に役立てるよう」ということで、そのままになった。
おそらく、それをみんなで分けたのだろう。
私は終戦を上海でむかえたが、児玉君は19年末からずっと日本にいた。
ですから、児玉機関の最後の後始末は私に任されたわけです。
既に集めた物資は輸送がほとんど不可能になり、日本に送ろうにも送れなかった。
貯まりに貯まった物資は大変なもので、あとで国民政府もその膨大さには驚いていました。
私もそのうちの一部をスイスのモニターパンという倉庫業に預けていたが、発覚し、撤収されてしまった。
みすみす没収されてはたまらないと考え、20年の11月に児玉機関の「財産」の一部をあるルートから頼み、飛行機2機に満載させて、東京の児玉機関に送った。
飛び立つまえに迂回すると飛行機の脚があまりの重さに折れたのを記憶している。
無事、いったん島根の飛行場に着いたが、その金塊、ラジウムの貴金属がどうなったのか知らされていない。
帰ってくると、児玉君は戦犯で巣鴨刑務所に入っていた。
その間、仲間は金を全部使っていた。
今、彼にふりかかっている今度のロッキード事件は、これまでと様子が違いますね。
よほどの覚悟が必要ですよ。児玉君は誰よりも日本人として生きるということがどういうことであるか、充分に分かっているはずだ。
単に一部の人間の営利のためにやったとすれば、腹を切ってもおさまることではない。
今度の国会での証人喚問をみて感じるのは、児玉君が証人として出ていたならば、どういうことを言ったか。彼は私らの期待を裏切らなかったと思いますよ。
仮に、金を受け取ったとしても、どういうふうに日本に良かれと考えたのか、その結論を知りたいものだね。