岩田幸雄研究

岩田幸雄研究

広島の岩田幸雄について調べた記録(ログ)です

偉業を残しても歴史の中に消えていく人はたくさんいる。
その1人「岩田幸雄」は、1960年代以前生まれの広島の方はご存知かもしれない…

かつて上海で諜報機関 ”岩田機関”を率い、紅幇(ほんぱん)に属し、フィクサー児玉誉志夫の児玉機関の創設などにも関わっていた男。

小説やラジオドラマのモデルにもなるほど波乱万丈な人生を送り、政界、財界、右翼、裏の社会でも名を知られながらも、芸術を愛し岡本太郎や青山二郎、宇野千代や小林秀雄、白州正子などの文化人とも親交のあった「岩田幸雄」について調べた記録です。

2025/12/10発売の文藝春秋に岩田幸雄の名前が登場しておりました。

「児玉に大陸での商売のイロハを教えた上海の重鎮で、児玉の兄貴分といってもいい人物だ」

と、あります。

この記事自体は児玉誉士夫ではなく、辻嘉六にまつわるお話の流れで登場してましたが、

“自民党のお金”の出どころですね…

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児玉誉士夫の児玉機関は上海を拠点にしていたはずですが、調べた限りでは児玉誉士夫は戦前戦中戦後あたりで中国に渡ってないように思えるんですよね…

さて、実際はどうなのだろう…

そして、そのお金はどこに行ったのか、どうなったのか…

この辺の謎が解けたらインパクトあるなぁ。

楽しみにしましょう!!

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便利な世の中になりました。

国立国会図書館のデジタルコレクションで「岩田幸雄」を検索すると昔よりもヒット数が増えていました。

 

早速、見ていくと…

1961年1月23日号の「週刊サンケイ」のオモシロイ記事が見つかりました。

(著作権を考慮して、画像は読めない状態でシルエットだけのUpです)

 

 

 

週刊サンケイ(1961年1月23日)

四つの島の王様~東シナ海に君臨した元日本人海賊
 

”雄大な海の不夜城”
「この事業の目的は瀬戸内海だけにとどまらず、さらに全世界の観光センターにすることだ」と岩田幸雄(56歳)はいう。
「瀬戸内海観光開発株式会社」というのがその会社名だが、事業の計画はなるほど雄大なものだ。
広島県佐伯郡大野町の沿岸約2,100坪(6,930平米)を埋め立て、そこに鉄筋5階建ての旅行会館を作り、さらに岬から約200mの海上に鉄筋8階建て立坪5,303坪(17,500平米)の観光ホテルを建設する。
だがこの規模がすごい。
旅行会館の方は約1,200名を収容する客室のほか、名店街、遊技場、映画館、演劇場、トルコ風呂、プールなどがあり、さらにヨットハーバーやヘリポートまで完備している。
また、観光ホテルはデラックスな客室は約300室。遊技場やトルコ風呂などの設備は会館と同じだが、二隻の専用遊覧船各180tによってホテルを中心に瀬戸内海を一周できる。
文字通り、海に浮かぶ”不夜城”を現出するわけだ。
総工費は約35億円。完成予定日は東京オリンピック前の昭和39年6月。
ちかく材料置き場の建設に着工するが、この雄大な事業計画には岩田氏の面目躍如たるものがあった。
というのは「海は全世界に通じる。世界を結ぶ観光センターは決して夢ではない」と断言する。
彼こそ、知る人ぞ知る終戦後、東支那海を暴れ回った支那海賊の首領だったのだ。


”舞妓に惚れられた中学時代”
岩田氏は明治37年、広島市で生まれた。
父 岩田万太郎氏は、士族商売の典型的人物だったという。
商売そっちのけで、明治20年には金1万円也を持って朝鮮に渡り、日韓貿易に尽くしたり、韓国亡命者を連れて帰国したり、政治運動に熱中したが、この父親の血を受け継いだ彼は若い時から大変な熱血漢だった。
9人兄弟の四番目の彼は東京の親類に預けられ、開城中学に通った。


その頃こんな話がある。当時、赤坂に「大月」という有名な料理屋があったが、そこの女将は岩田氏の祖父とは因縁浅からぬ仲だったので、彼は暇さえあれば遊びに行った。
ところが、「せくな騒ぐな天下のことは、しばし美人の膝枕」と唄った明治維新の志士気取りの、岩田少年に恋心を寄せた舞妓が現れたのだ。若い二人はたちまち仲良くなった。
岩田少年は土曜日に赤坂に泊まり、日曜日には彼女と歌舞伎座に行ったり銀ブラしたりといったスケジュールになった。
その頃彼は学校きっての暴れん坊で滅法ケンカが強かったそうだ。
ある日曜日、日比谷公園で他校生の一団と決闘することになった。
もちろん岩田少年は船頭だ。
しかし、彼の身を案じた舞妓は行かせまいとして、とっさに彼の靴を隠してしまった。
決闘の時間は迫る。
友達から卑怯者と言われるのは何よりも辛い。
ついに岩田少年は、玄関先にあった舞妓の履くボックリをつっかけて日比谷公園に駆けつけたのだ。
東北地方でぼっくりのことを「おマン下駄」というが、以来彼は「おマンちゃん」というあだ名がついてしまった。
現在でも岩田氏を知る人の間では、岩田のマンちゃんというのが通り名になっている。
彼ははじめ画家になろうと美術学校を希望したが、両親の反対で明治大学の法科に進んだ。
しかし、多情多感な青年の彼は、学校に通うよりも、神田のカフェやミルクホールで気炎を上げている方が多く、浮き名や勇名をはせて、「岩田のマンちゃん」といえば誰も知らぬものもないほどの、不良学生だった。


”上海を根城に謀略活動”
卒業後、彼の父が情熱を注いだ朝鮮に渡った。
目的は貧しい農漁村部の経営改善のため、知識の啓蒙をやるといったものだ。
それに伴う技術者7人を連れて清洲の「東亜義塾」という私学校を作った。
昭和12年7月 日支事変が勃発するや、急遽帰国し、外務省が企画した「汪精衛新政権樹立計画」に参加した。
それは、汪精衛を重慶から脱出させ、ハノイを経て東京へ連行する秘密工作だ。
そのため、岩田氏たち約20名の工作員は、東京の赤羽射撃場で連日、拳銃の練習に励んだ。
その拳銃は万一を考えて外国製のものばかりだった。
そして外務省公用のカバンに入れて密かに上海に運んだ。

いよいよ実行というところに、陸軍側から「オレたちに任せろ」という横ヤリが入って中止になったが、岩田氏はそのまま上海に残り、「岩田公館」を設置した。
国際都市上海に根拠を置いて広く経済情報を収集する一方、外交、軍事両面にわたる謀略活動をするためだ。
中国人、朝鮮人など300名を直属員とし。さらに数百名の下部組織とした大規模なものだった。
当時、岩田氏のほか、軍関係の戦略物資の集買機関もたくさんあったが、民間の岩田氏が圧倒的な好成績を上げていたという。
また、仕事の性質上、生命の危険に直面することは日常茶飯事のようなものだったが、その華々しい活躍ぶりから上海一のお金持ちと思われて、二度も義勇軍と称する匪賊に拉致されたそうだ。


”義を感じ、海賊たちを救う”
その彼が終戦後、東支那海の海賊王となったのは、次のようなイキサツからだった。
日本海軍は作戦上、東支那海の海賊を利用した。
その頃、彼らは林義和(りんぎわ)を首領とする集団と、陳阿古(ちんあこ)を指揮者とするグループの二派に分かれ、勢力を争っていたが、海軍はそれぞれ第一集団軍、第二集団軍と命名して、機関銃、迫撃砲、機帆船などを与えた。
ところが彼らは自派を有利にしようと、上層部である日本軍武官府にさかんに取り入ったらしい。
その結果、陳阿古の「林義和は密かに重慶と通じている」というザン訴を取り上げた現地の海軍武官府は林義和を逮捕し、これを逆さずりにして銃殺し、その部下たちを追放した。
彼らはかねて林義和と親交のあった岩田氏に救いを求めた。
”義を感じた”岩田氏は彼らをかくまった。
そのため、岩田氏は上海陸戦隊に逮捕されたが、この事件が陳阿古のつくり事であることが分かって、すべて無罪となった。
しかし、これを機に林義和の部下たち、第一集団軍の海賊たちは、岩田氏の慈父のごとく慕ったのだった。
終戦と同時に、蒋介石の国民政府軍は岩田氏に対する逮捕命令を出した。
上海は敗走する日本兵や帰国を急ぐ在留邦人たちで、みじめな混乱を繰り返していた。
岩田氏は中国の宦憲の目を逃れて転々と身をかくした。
正義の死をもって任じる支那浪人の中にも、自分が助かりたいばかりに岩田氏の居所を密告するものもあった。当時を解雇して、彼はこの時ほど私は情けなく思ったことはなかった。人間の弱さ、醜さを見せつけられて暗澹としたとしめめ語っていた。
かつて親しかった人たちも、彼の姿をみるいと官憲の嫌疑をおそれてソッポを向いた。
正義の士をもって任じる支那浪人のなかにも自分が助かりたいばかりに岩田氏の居所を密告するものもあった。
当時を回顧して、彼は「このときほど私はなさけなく思ったことはなかった。人間の弱さ、醜さをみせつけられて暗たんとした」と、しみじみ語っている。

”慕われた海賊を蔡徳海”
だが、失意のどん底にあった岩田氏に思いがけない幸運が舞い込んだのだ。
その頃、国民政府軍の第三戦正軍が浙江省の寧波にいたが、彼らはほとんど福建省出身だった。
中国軍の場合、兵隊の衣類、食料はその出身の省が賄わねばならない。
ところが福建省は山地が多く、寧波に通じる適当な道路がない。それに匪賊の横行も激しい。
といって輸送船で運べば、たちまち海賊の餌食になる。
頭を悩ました福建省主席の劉建忠氏がハタと膝をたたいたのが、岩田氏に頼んで東支那海のもと第一集団軍の海賊たちを動員することだった。

蘇州の居士林というお寺に蔡徳海と名乗って身を隠していた岩田氏は、直ちに海賊船に乗り込んだ。
彼を徳とする海賊たちは進んで部下になった。
本拠地は福瑶島、大嵛山島、小嵛山島、七星島の四つの島だ。
岩田氏は旧日本軍の武器で装備されたジャンク船約200隻、機帆船約5隻を指揮して福建省から寧波に物資を運ぶかたわら、台湾、東南アジア諸国と密貿易をやった。
四つの島の王様となった彼は、お寺や学校、公会堂などを建てたり、朝鮮時代の経験を生かして農業試験場を作ったり、新しい国づくりならぬ島づくりに努力したそうだ。
福建省から鎮重(日本で言えば村長)という肩書きをもらった。
しかし、彼の権限で住民たちから取ることができる牛や豚などの屠殺税や宗教税も取らなかった。
「偉い人は軽々しく動いてはいけないという中国の風習があるので、いつもどっしり構えていなければならない。タバコを吸うにも、食事をするにも、ゆったり手を動かすだけわけで、これには参った。外に出ればみんなに鷹揚で親愛を込めた挨拶をかえし、子供がいれば必ず頭を撫でてやる。私は女性は一切近づけなかったので、住民たちは尊敬していたようだ。」


”銃殺されたはずなのに…”
23年5月、突然、中央政府によって岩田氏は逮捕された。
彼の部下に台湾人が多かったところから、台湾の暴動事件を扇動したという容疑がかかったのだ。
岩田氏の逮捕に島の住民たちは不穏な動きを始めた。
逮捕に来た宦憲たちは、船の焼玉エンジンの音にも怯えて銃を乱射したという。
岩田氏の説得でやっと騒ぎはおさまったが、南京に連行される彼との別れを惜しむ海賊たちは、どこまでも護送船の周りに船を浮かべて送ってきた。


昭和23年10月、彼は無罪釈放となって中国政府の船で帰国した。
終戦から約3カ年、ようとして行方を絶っていた岩田氏の出現に、家族はもちろん、友人知人たちはみんな驚いた。
終戦直後"岩田幸雄 重慶軍により銃殺される"と新聞にも報道されたほどだから当然だった。
現在、岩田氏は「全国モーターボート競走連合会常任理事」「広島県モーターボート競走会会長」
「社会福祉文化事業団理事長」
さらに今度の瀬戸内海の観光開発事業と、大活躍だ。
千代夫人(43歳)との間には男3人、女6人の子供があり、円満な人格とともに恵まれた生活をおくっている。
「私は海とは切っても切れない縁がある。今度の仕事は私のライフワークだ」という岩田氏には、海賊王のファイトが燃えているようだ。
(天野陽三)

 

このページは1976年3月の「週刊サンケイ緊急増刊」内の記事です。

 

 

文字起ししたものも記載しておきます。

 

■初めて明かす児玉機関の知られざる部分

ロッキード事件は児玉誉士夫を抜きにしては一言も語れない。彼こそは、この事件の鍵を握る最大、唯一の人物といっていい。
その彼を語るに、児玉機関を無視できない。
ここに登場する岩田幸雄氏は、彼とともに児玉機関を創設したメンバーの一人である。これまでベールに包まれていた児玉機関とは。。。

私が児玉君と知り合ったのは昭和10年でした。
彼が帝都暗黒化計画事件(送電線を破壊し東京中を暗闇にすれば戒厳令がしかれる。そこでクーデターを起こさせる計画。未然に発覚)で豊多摩刑務所に入っていたときです。
私もある事件の受刑者で、そこにいたのですが、ある日、作業の監督をするように言われた。寒いときで、休憩の合間に日向ぼっこをしていたんです。
その頃の児玉君は周りの者から、ちょっと異端者のように見られていた。その彼が箒をかついで向こうからやってくる。
私の方から声をかけて、二人で芝生をいじりながらいろいろと話し合ったのです。
ふいに児玉君は涙をポロッと流すんだね。
どうしたのか?と訊くと、芝生の新芽をみて、胸がこみあげてきたと言う。それからお互いの付き合いが始まったんです。
児玉機関が出来たのは、昭和16年の11月です。
当時、国粋大衆党総裁をやっていた笹川良一氏の紹介で海軍航空本部長の山縣正郷中将が、早くから戦争遂行は戦艦第一主義は時代遅れであり、航空第一主義を唱え、そのため航空資材の調達を外地でやる必要があり、その任に児玉機関をあたらせることを考えたのですね。
私も、それまで勤めていた外務省の嘱託を辞めて、児玉君と一緒に児玉機関の創設に参加したわけです。

児玉機関の情報機関"岩田公館"
児玉機関の主要人物は、児玉君を頭に、吉田彦太郎、高源重吉、奥戸足百、藤吉男、私の6人で、児玉機関での肩書は無かったが、吉田君なんかは副機関長だと周りで勝手につけていた。
それでお互いの分担だが、児玉、吉田、高源の3人は主に海軍との政治折衝や、漢口、旅順など8か所にある児玉機関の支部への指令に当たり、私はもっぱら物資の買い付けのための工作責任者として従事していた。
児玉機関の本部は、上海の文路のピアスアパート内にあった。
3室を持ち、応接室と経理部門(経理部長 小田原健二)があり、ごく少数の者がいました。児玉機関の輸送部は上海のブロードウェイにあって、児玉君はその上にあるマンションに住んでいた。
児玉機関に従事していたのは、末端の者まで入れると二千人近くいたが、そのうち日本人は4~500人ほどいました。
児玉機関に海軍から当初出たお金は、年間1億円(当時の金額で)であった。
これをもとに開戦から数か月で軍が驚くほどの航空資材を集めたわけです。
最も必要としたのは航空機、魚雷に使う銅で、これは向こうの良質の銅幣(銅銭)からとった。
後は、雲母。タングステン、ダイヤ、ラジウムなど、あらゆるものを集めたわけです。
物資は上海、南京、杭州の三角地帯、あるいは香港、シンガポールなどからも集めた。あるいは、上海の外国租界の倉庫にごっそりと積まれているのにも目をつけたわけです。
どうゆうふうに物資を調達するかといえば、むこうの人が欲しがっている佐藤、塩と物々交換するか、あるいは金塊、現金で取引するのです。交換物資の砂糖は台湾から匪賊に軍団を組ませて運び、塩は日本、山東省、朝鮮から持ってこさせました。
金塊は満州で砂金から採ったものを上海で精製し、銭荘の刻印したものを使っていました。物資は思うように集まるが、問題はいかに日本まで輸送するかということです。

なにしろ、輸送機関は陸軍が押さえている。
ところが、陸軍の方は物資が思うように集まらない。そこで物資を分けるということで、輸送は陸軍があたることになった。
実は児玉機関の情報を担当していたのは別の組織ですよ。
児玉君は軍の関係もあり、児玉機関が表にたって情報活動をすることが出来ない。
そこで情報機関として私の名前をとった"岩田公館"を児玉機関と同時に発足させた。
むろん、児玉君とはお互い一体となってやっていたわけです。
いわば、児玉機関の秘密機関ですね。
この"岩田公館"には約200人の情報員がいて、ポルトガル人からメキシコ人、フィリピン人、台湾人それに10人ばかりの日本人が動いていました。
これらの情報員の中には、敵の重慶派に殺されたのもいる。情報員同士で利害が絡み、狙われることもあった。
一番厄介なのは、スパイが潜入してくることで、二重スパイもいた。だから、10人に1人の割で監視人をつけ、またその監視をする人間をも見張るようにした。
当時の我々の主な任務は、占領地外に排出している物資はどこに何があるかといった日常必需品の需給の動向とか、児玉機関に必要な情報の一切を調べる。
それらの情報に基づき、輸送機関やあらゆる掌握している権利を利用して、交換物資の砂糖、塩にしろ、こちらが物価の高低を自由にし、その利潤のサヤで、こちらが欲する膨大な物資を手に入れることが出来た訳です。
つまり、これらの任務を遂行する"岩田公館"は金を稼ぐ児玉機関のトンネル機関でもあった。

日本に着いた金塊の行方は…
彼は上海の第一線で仕事をしている意識と、こちらに軍人もいるという手前、ほとんど遊ぶということはなかった。
しかし、上海から内地に帰ると上海の前線基地と我々が呼んでいた某料亭では相当派手に彼はやっていたんですね。
それで付けられたあだ名は「児玉放棄の神、早乗り」というものでした。
次々に女性をかえての早乗りぶりから、そう呼ばれていたわけだ。
いっとき、児玉君は杭州の匪賊「紅槍会」の責任者に狙われたこともあったが、うまく彼らを児玉機関に帰順させたことに成功したこともある。
毎年、児玉機関には海軍から2億円~3億円の予算がはいるが、物資調達には、その金には手を付けず、日本で廃鉱になった鉱山の再開発とか、資材の調達に向けた。
終戦のとき、20年度の予算として2億3千万円がおりていたが、これはまったく使わずじまいで、海軍に戻そうとしたが、時期が時期で、その金は「将来の日本の再建に役立てるよう」ということで、そのままになった。
おそらく、それをみんなで分けたのだろう。
私は終戦を上海でむかえたが、児玉君は19年末からずっと日本にいた。
ですから、児玉機関の最後の後始末は私に任されたわけです。
既に集めた物資は輸送がほとんど不可能になり、日本に送ろうにも送れなかった。
貯まりに貯まった物資は大変なもので、あとで国民政府もその膨大さには驚いていました。
私もそのうちの一部をスイスのモニターパンという倉庫業に預けていたが、発覚し、撤収されてしまった。
みすみす没収されてはたまらないと考え、20年の11月に児玉機関の「財産」の一部をあるルートから頼み、飛行機2機に満載させて、東京の児玉機関に送った。
飛び立つまえに迂回すると飛行機の脚があまりの重さに折れたのを記憶している。
無事、いったん島根の飛行場に着いたが、その金塊、ラジウムの貴金属がどうなったのか知らされていない。
帰ってくると、児玉君は戦犯で巣鴨刑務所に入っていた。
その間、仲間は金を全部使っていた。
今、彼にふりかかっている今度のロッキード事件は、これまでと様子が違いますね。
よほどの覚悟が必要ですよ。児玉君は誰よりも日本人として生きるということがどういうことであるか、充分に分かっているはずだ。
単に一部の人間の営利のためにやったとすれば、腹を切ってもおさまることではない。
今度の国会での証人喚問をみて感じるのは、児玉君が証人として出ていたならば、どういうことを言ったか。彼は私らの期待を裏切らなかったと思いますよ。
仮に、金を受け取ったとしても、どういうふうに日本に良かれと考えたのか、その結論を知りたいものだね。


 

ボートレース宮島(宮島競艇)の開設25周年の記念冊子の中にあった数ページを画像としてUpします。

これがもっとも略歴として分かりやすく、重要な点を押さえているように思います。

(1993年9月に亡くなってからちょうど丸32年です…これは33回忌ですね)

 

 

 

以下、文字起ししたものです。

 

孝心篤く三滝山に多宝塔を建立

三滝山に多宝塔がある。若葉の頃は塔の朱色がひききわ映えて美しい。
広島県指定の重要文化財にもなっている。
岩田幸雄氏は、大永6年(1526年)に和歌山県の広八幡神社境内に建立されたこの塔を解体して、はるばる三滝山に移し、昭和26年5月に落慶させるに至った。これは観音信仰の篤かった母堂タヅに報いる孝心の具象であり、また原爆被爆者に対する慰霊の象徴である。

焦土かく風たちまちにかをりたる 万

すでに故人となった久保田万太郎師は、この句を贈って多宝塔一建立の美挙を称賛した。
岩田氏はその好意に応えてこの句を碑に刻み、昭和33年5月、万太郎氏を招いて除幕式を行った。
これが機縁となって、毎年万太郎賞俳句大会を催すようになり、好評を博してきた。
昭和38年5月、師の死去後も、師と因縁が深く、また岩田氏とも親交のある(故)宮田重雄、(故)伊藤憙朔、中村汀女、永井龍男、安住敦史ら諸先生方が相次いで来広され、近県にも稀にみる盛大な大会が続いた。
ちなみに、昭和51年11月には中村汀女先生の句碑も、岩田氏によって境内に建立された。

落花濃し三滝のお山父母恋へば 汀女

孝養の篤い汀女先生の気持ちが、岩田氏の孝心に相通じるものがあったようである。

日本人という誇りを常にもち、人のため、国のために東奔西走
岩田氏は広島市の旧家に次男として生まれ、家業を継ぐこともなく、自らは美術学校を志したが、家人の反対にあい、多感な少年期に見られがちな多少の屈折はあった。
上京して海城中学から明治大学に進む頃、(故)サトーハチロー氏らと交わり、「おい、ハチッ」「おお、兄さん」と呼び交わす仲であったが、肩で風を切って歩くようなヤンチャ時代は長くなかった。
大学で「人間形成の基礎」「真理の探究」を学ぶことなどは、まどろこしくて、実践躬行型の性格には入れられず、明治大学を中退して、勇躍満州へ飛び出し、中南支と渡り歩くのである。
その間に、後日、日本軍のため、国のために働く基盤が築かれていく。

その活躍ぶりは、次のような賞状にも一端がうかがえる。
ここで、戦時中の陸海軍の確執について触れるつもりはないが、海軍内においても、旧来の艦艇中心主義の艦政本部に比べて、航空機中心の航空本部はひどく軽視されていた。
真珠湾及びマレー沖海戦にみるとおり、慧眼にも航空機優先を主唱する山本五十六海軍大将(当時)は、航空機に必要とする資材、物資について、盟友国粋大衆党総裁(当時)笹川良一氏に協力を求めた。
そのころ、岩田氏は既に上海に在って、岩井英一氏(当時副領事)を指導者とする外務省情報部特別調査班と呼ばれる岩井公館において、特別任務についていた。
岩田氏は上海という第三国の権益の入りくむ複雑な経済機構の中で、活発な活動を続けており、援蒋物資(蒋介石政権を援助するために各国から送ってくるもの)の内容と、これを隠匿している場所をことごとく突きとめ、関係資料を握っていた。そのころ、物資収集の機関を設けるべく、上海を訪ねた海軍本部長山県正郷中将と国粋大衆党事業部長小林豊樹の両氏は、岩田氏の提供する情報と、物資内容を聞くに及んで、躍り上がらんばかりに欣んだということである。
物資収集の機関は、笹川良一氏の提言によって初め小林・児玉機関としたが、岩田氏は児玉誉士夫氏の特有な政治感覚と、彼のもつ金銭哲学に共感することがあり、児玉機関と呼ぶように主張してその名が今日まで残ったのである。
なお、岩田氏は児玉機関とは別に岩田公館を設け、中国人、台湾人、ポルトガル人、フィリピン人、メキシコ人をはじめ、日本人10名を含む150人を駆使して、情報収集にあたっていた。
以上のような動きから、右翼の行動派だとする世評を本人はあえて否定しようとはしないが、強いて「あなたは右なのか。左なのか」と尋ねると、決まったように「私はどちらにも偏らない日本人だ」という返事が返ってくる。
大正末期から昭和の初期にかけて、文芸戦線の華やかなりしころ、青野秀吉、小堀甚二、平林たい子、山本久夫、葉山嘉樹ら諸氏の活動に、人知れず貢いで、しかも当人たちは気付かないでいたという挿話もあり、当時の警視庁特高二課でさえ、岩田なる人物が、一体右寄りなのか左よりなのか掴めないと首を傾けたという。

小説のモデルになった波乱万丈の生涯
昭和41年6月、毎日新聞社出版、今日出海著「海賊」は、1年間にわたって新聞に連載されたものだが、主人公として活躍する岩木庄平は、ほかならぬ岩田幸雄氏をモデルに取材したものである。
昭和13年12月、汪兆銘が蒋介石と袂を分かって重慶を脱出し、翌14年5月6日ハノイを経て上海へ、次いで5月31日空路、影佐陸軍大佐(当時)、清水薫三書記官らに誘導されて、第1回目の訪日をした。
平沼首相との会見を終えて帰国後、すでに成立していた臨時政府、維新政府首脳と会談するなど着々と準備を進め、昭和15年3月30日、汪兆銘は南京に還都、中央政府の樹立を宣言した。
岩田氏は汪兆銘の政府が樹立するまで、軍では容易に手の出せない民間人にして初めてなし得る「影の力」となって活躍したことは、この時代の裏面史に語り継がれている。
岩田氏に対する汪兆銘の信任も篤く。岩田氏の書斎には流麗な筆致による汪兆銘の染筆が掲げられている。

同心同徳以共安危以共休威 汪兆銘
(心と徳を同じくして安危喜憂を共にする。ということは信愛と情と同志的真情を披瀝したものと解される)

昭和32年11月、東方社発行、林房雄著「消えぬ夢」の中に「武器なき海賊」という一遍がある。昭和35年、これをテーマにしてNHKは「南シナ海」というラジオドラマを5日間にわたって放送したが、この伝記風の物語の原文中に登場してくる中国姓の蔡福生、日本名大田福男は、このドラマでは岩田幸雄の実名で放送された。
その内容は次のようなものである。
敗戦後、日本人がどんどん引き揚げて帰っていく中で、蔡福生は郷里広島は原爆のため、家も一族も皆やられていると独り合点し、自らも期することもあって、逆に蘇州へ逃避するのである。
そこで何南星という杭州軍官学校出身の陸軍少将で、その頃寺の住職に変身していた人物と出会う。
その人の知遇を受けて意気投合するが、その日の彼の奨めで。福建省瑜山島へ移り住むことになる。
3年足らずで水稲、植林を教え、医療施設や学校を造り、寺まで建てて善政を施した。
その間、機械、器具、原材料の仕入れのため、上海へ足繫く出入りし、しばしば危険に身をさらしながら、島民のため、福建省のため密輸を生業としていた。
そのため、在島3年といっても、1年8か月は海上にいた計算になるという。
ここでいう密輸とは、我々の持つ概念とは多少ニュアンスを異にしていることを付記しておく。
中国は国土が非常に広いため、省単位に経済圏を独立させているので、省の許可なくして、一省から他の省へ物資を流通させると密輸ということになるのである。
この密輸という経済事犯が、二重国籍詐称と共に、後に蒋政府に逮捕される罪名となるのだが、本人には終始納得のいかぬ囚われの身であった。
しかし、仮面はがれた日本人として、いかに扱われようとも先方任せの立場におかれていた訳である。
幸い蔡福生を慈父のように慕う島民挙げての熱心なる助命嘆願によって、一命を取りとめた。
現在、東南アジアに進出して何代も棲みついている華僑は、福建省と広東省の出身者が多い。
彼らにとって、蔡福生なる人物が日本人であろうと、中国人であろうと問うところではなく、義侠の大人として伝説的人物になっているようである。

先年、マレーシア独立の父として敬仰されているラーマン首相(当時)が訪日に先立って、彼の義弟シャブデン氏が「兄首相が訪日する際、民間の有力者にも会う希望をもって行くが、誰が良いでしょうか」と質したところ、クアラルンプールの華僑の有力者が即座に岩田幸雄氏を名指ししたという。
ラーマン首相が訪日するや、政府関係者が啞然とする中で、初対面とも思えぬ親交ぶりを示した。
今日なお、マレーシアの独立記念日には岩田氏宛に招待状が届けられている。

各界に精通し影の力となって支援
昭和19年、岩田氏は上海に来ていた小林秀雄氏に、ある夜酒杯を交わしていた席で、「今年、北京で第2回大東亜文学者大会を開催するにあたり、日本興亜院の後援を得て、東京で久米正雄さんと今日出海さんが資金集めに奔走しているが、なかなか募金が集まりそうにないのだが、あなたの方でも200万円ほど何とか都合してもらえないだろうか」ともちかけられた。
頼まれる岩田氏としても当時としては大変な金額であったが、翌朝さっそく銀行へ行って、200万円を引き出そうとした。ところが驚いたのが同行した小林秀雄氏の方で「私はそう言ったかな…20万円でよいのだ」と言い直したので、内心ほっとして要求額だけ引き出して小林秀雄氏に渡したという。
いかにも大陸的な話だが、小林秀雄氏が後日誰にいうでもなく、「この人は信じていい男だ」と言ったことが伝わっている。
ここらに文壇人との付き合いの広がりがあるように思われる。

岩国出身の河上徹太郎さんは、母堂の生前中はよく帰省されていたが、そのときは決まって岩田氏と酒杯を交わす仲だった。
その河上さんが55年秋に亡くなる数日前に家財、書画、蔵書等の処分について遺言とも思える相談をもちかけられたそうである。人間の今際の請託など滅多な人にできるものではない。
そのほか、今日出海、永井龍男、大岡昇平、高見順、川口松太郎、大木惇夫、草野心平ら、すでに故人になられた方もあるが、多くの作家や詩人と親交がありう、これに伴うエピソードがあげれば数限りない。

先に「永仁の壺」の真贋が世に問われたことは、そんなに古いことではなく、多くの人の記憶にあるところだが、国立博物館では面子上、永仁の時代のものと主張し、加藤唐九郎一族は、唐九郎の作だと譲らず、ついにその頃パリに滞在中の作者を呼び戻す騒ぎとなり、世に「永仁の乱」とまで言われた。
その頃、岩田氏のことを「ジイちゃん」の愛称で呼ばれる青山二郎さんが寄寓していた。
彼は絵画に詳しく、自らも描き装丁家として、また陶磁鑑定家としてもよく知られていた。
そこで唐九郎師がこの青山さんに私淑していると知った岩田氏は、パリから帰った唐九郎師をじきじきに広島に迎え、青山さんと対面させた。
青山さんの勧奨によって、唐九郎師自ら「永仁の壺」は自分の作であることを言明してケリをつけた。
ときに昭和35年、唐九郎師(62歳)は一切の役職を辞したわけだが、かえって陶芸技術の真価をかわれるところとなり、名声を一段と高めた。

岩田氏の多芸、多趣味なことは意外に知られていないが、その交友関係は驚くほど広い。
文楽の竹本越路太夫、長唄の芳村伊十郎、清元の志津太夫、作曲家の古賀政男、服部良一、画壇では岡本太郎、そのほか芸能界にも知己が多く、森繁久彌ら、数え上げると枚挙にいとまがない。
スポーツ界においても然り、特に格闘技に関心が強く、自らも空手道6段位に在り、各競技の世話役として現在も活躍している。
財団法人日本相撲協会からは目代(昔でいうお代官様という地位で日本に5人しかいない役)に推挙されている。また日本プロボクシングコミッショナー諮問委員として、厳しく業界を見守っている。
その他、盆栽、養鯉の鑑賞など静かな趣味にも造詣が深い。
殊に銘石の収集は大したもので、千点以もの銘石を蔵し、単に鑑賞するだけでなく、水石の自然石を求めて現場に赴き、硬質の紋様石を見つけては持ち帰って磨き上げるのである。
これには随伴者も閉口、石の重さに音を上げることもしばしばあった。

郷土広島を愛し、平和都市法制定に尽力
岩田氏の功績の中で忘れてはならないのは、「平和都市法」の制定に尽力したことである。
この法案制定は広島市民の大悲願であった。
当時、岩田氏は東京の神楽坂に居を構えていたが、その思いを常に原爆によって廃墟と化した広島に馳せ、その復興をいかにすべきかということが頭から離れなかった。
そして、この法案制定のためには国の力を借りなくては到底不可能だとした。
同憂の市民を代表する議員諸氏も情熱をふりしぼって、広島市の復興のために心血を注いだ。
その当時の市会議長仁都栗司ほか、伊藤忠男、宮本正夫、荒木武(当時の広島市長)らの諸氏は、このためしばしば上京し、その都度、岩田邸において対策を練っては行動に移った。
岩田邸は移動市会の小委員会の観があった。
岩田氏は法制局の寺光忠氏に平和都市法の草案を作成するように依頼し、巣鴨拘置監収容中の郷土の先輩、賀屋興宣氏を訪ねて、指導ならびに関係者への指示を懇請するなど、文字通り影の力となって、平和都市法が可決されるに至るまで、多大な貢献をした。


確たる信条を持ち、今なお情熱を燃やし続ける
岩田氏の信条とするところは、「常に国を憂い、皇室を重んじ、敬神祟祖の念強く、情に篤く、任侠の道を歩む」ということで、常にそれを実践してきた。そういうと良いことづくめのようだが、決して大袈裟な評価ではない。次のようなことが、これを実証している。

●剣道大会
敗戦の荒廃から日本を再建するには次代を担う青少年の健全なる精神と強紐なる体位の向上にあるとして、三滝山多宝塔奉納剣道大会を開催することに意を注いだ。
年々好評を博し、本年は広島県立体育館において第20回大会を開催したが、1,400名にのぼる参加者を得、なかなかの盛会であった。

●教育勅語
国づくり、人づくりを見直さねばならない現代社会の若い世代の人々に、いかに生きるべきかという指針を与えるには、明治天皇の聖旨、教育勅語を真摯に復習してみることが近道であると思うに至り、この道専門の大学教授の協力を得て、若い人たちにも理解しやすいように慎重に意訳を付して教育勅語を印刷した。
これまでに3万部をそれぞれの機関、あるいは希望者に無償配布してきたが、時宜を得たというのか、今日では全国から問い合わせや入手依頼もあり、増刷の必要に迫られているといった状態である。

●西日本海洋協会
当協会の設立した趣旨に岩田氏の信条とするところの一端が明記されているので、ここにその趣旨の要約を述べて、この項を終わりたい。
「我々は怜悧さと勤勉さをもって、敗戦後30年にして、よく世界第2位の経済力をもつに至った。しかし、世界6位の1億あまりの人口が、世界50位という狭隘にして、資源のない孤島にひしめきあっている宿命は、少しも軽減されたわけではない。
そればかりか、世界的な食糧危機の到来ということが、どこからともなく叫ばれ、特にたんぱく源の問題が重視されてきている中にあって、「海洋自由」の原則が、いつしか「海洋分割」という新海洋法時代を迎えつつある。
領海12海里、経済水域200海里、深海底の国際管理などという基本原則も煮詰まってきている。
こうなると、我が国の遠洋漁業はいずれの海域からも締め出され、魚たんぱく資源は枯渇してしまうおそれがある。
これは単に漁民の問題にとどまらず、日本民族の生存に関する問題である。
送球に海洋的人材を育成し、養殖を含む沿岸漁業に力を注ぎ、海洋牧場の開発と自然を保全し、自然との調和をはかる国民運動を展開しなければならない」と警告している。

岩田氏は、海に憧れ、海に生きてきた男として、モーターボート業界の第一線を退きながら、今日なお若き日の情熱をそのまま持ち続け、海を見つめているのである。
 

 

”ご縁”でしょうか。

広島の老舗BARのマスターと話していたところ、「石原慎太郎の本に岩田幸雄が登場していたよ」と。

そして、そのマスターは書籍のタイトルの一部を覚えていたので、その場で検索してスマホで書籍の画像をお見せしたところ

「これに間違いない!」ということで、早速購入。

 

****「わが人生の時の人々」****石原慎太郎

 

その中の文章を抜粋しましょう。P79

 

「小林さんと親交のあった河上徹太郎氏から聞かされ、同じ仲間だった青山二郎氏が可愛がって連れて歩いていた、そして河上さんの郷里岩国近くの広島で何かと河上さんの面倒を見ていた、二人が「岩田のお父(おとう)」と呼んでいた広島の競艇をしきっていた岩田幸雄さんからも、新橋のキイクラブで何度か聞かされたものだった。

 

ちなみに、いつも寡黙だった岩田さんは、若いころは高元さん目下の精鋭だったそうな。

 

これは私の勝手な想像だが、三人から聞いた話の具合からすると、深夜小林さんを殺しに出かけた二人の内の一人は、「岩田のお父」だったのではないかと思っているが。

いずれにせよ、大陸にくり広げられていた戦争を背景にした、ある青春の群像が目に浮かぶような気がする。」

 

※小林さんは小林秀雄さんのことです。

 

まだまだ知らないだけで、いろんな書籍に岩田幸雄は登場しているのかも知れない。

今後も見つけ次第、アップしていこうと思います。