岩田幸雄研究

岩田幸雄研究

戦後の大物 広島の岩田幸雄について調べた記録(ログ)です

偉業を残しても歴史の中に消えていく人はたくさんいる。

その1人「岩田幸雄」は、1960年代以前生まれの広島の方はご存知かもしれない…

かつて上海で諜報機関 ”岩田機関”を率い、紅幇(ほんぱん)に属し、日本の政界にも顔がきき、右翼、裏の社会でも知られ、フィクサー児玉誉志夫の児玉機関の四天王と呼ばれた「武器なき海賊」。

そして、岡本太郎や青山二郎、宇野千代や白州正子などの文化人とも交流のあった男。

その岩田幸雄について調べた記録です。
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はじめに
想えば、モーターボートに男の半生を賭けたことになる。
それ以前のことは、昭和40年、毎日新聞に連載された、
今日出海君の小説「海賊」の主人公岩木庄平のモデルが私であり、また林房雄君の小説「武器なき海賊」で、私に関する行動のあらましが描かれている。
また私のやってきた役割の一部については、岩川隆著「日本の地下人脈」でも触れられているので、ここでは多く語らないことにする。
ただ、終戦時なお大陸の地にあって、焦土と化したであろう祖国日本の将来を慮り眠れぬ夜が続いたのも、それまでが、余りにも国家事業の最前線で働いてきたからである。
昭和22年の夏、帰国の途についたが、戦火の止んだ大海原、美しい瀬戸内海の景観に変りはないが、戦争に敗れ丸裸になった、その日その日、喰うに食なく、住むに家なく、悲惨極まりない情況を目のあたりにして暗たんとした気持ちを忘れることはない。
しかし、そのとき気付いたのが、われわれは海国の民であり、もともと資源を持たない国でありながら建国できたのは海に依るものだ。
起死回生は海による他ないと言うことであった。
海国日本を甦らせよう、それにはどうすれば良いか、笹川良一氏ら同志と相寄り相計り、苦斗に苦斗を重ね、漸く昭和26年モーターボート競走を公営競技として施行することに成功したが、あれから40年は瞬時の間に過ぎた。
そして今日、モーターボート競走の発展は言うに及ばず、造船業界に於ても、世界一の質鼠を誇るに至ったことを想うと感ー入である。
人間、夢を持つことが大切だ。
敗戦国日本と日本人が、世界の経済大国と崇められたり、豊かな国民生活が送れるなど、誰もが予想しなかったことだ。
卆寿を間近に迎えた私であるが、未だ夢は捨てない。
昨年からの世界激動を目のあたりにして、愈々わが国の役割が国際的に重要さを増してきたからだ。
戦争を放棄し、経済大国を築いたわれわれ日本国民の英知が、21世紀へ向けての世界新秩序構築に貢献できる時が来たのだ。
往時を想い起こし、これからの飛躍を祈念しながら国際平和を希って小誌にまとめたものである。


賭け事の歴史を探る
わが国の賭博に関する最も古い記録は「日本書紀」
天武天皇14年の条にある「大安殿二御シ、王卿ヲシテ博戯セシム」の一節で、日本人が賭け事に親しみ始めたのは、大陸から双六が入ってきたと思われる飛鳥時代の終わりから白鳳時代初期の頃であろう。
以来二千年にわたって、賭博はさまざまな変遷を経ながら、決して衰えることなく、恰も人生の伴侶の如く世相の一角を占めつづけたのである。
江戸時代、神社仏閣の修復や建立の資金を募るため、富くじが売り出された。喜捨のつもりで投じた金が、百倍にもなって戻ってくることに興味がわいた。
いつの間にか庶民の夢を育て、「掟」を設けざるを得なくなった。
落語の種になる程だから、かなりの人気を呼んだに違いない。
しかも為政者は、一貫して厳しく禁圧してきた。
特に長い泰平の世を謳歌した江戸時代は、賭博の全盛時代であったが、同時に禁制も厳重を極めたにもかかわらず、その流行を抑えることがでぎず、むしろ非合法行為を地下に潜らせ、陰湿な快楽の温床となり、博徒と云う一群の遊民を出現させた。
強圧な権力をもってしても、賭け事を人間社会から追放できないのは世界に共通する歴史ではなかろうか。
世界古典文学の名作に、ギャンブルを扱ったものも珍らしくない、ルニャールの「賭博師」(フランス)、プーシキンの「スペードの女王」(ロシア)、ドストエフスキーの「賭博師」(ロシア)など有名である。
諸外国でも、古くから生活のなかに深く入り込み、あらゆる人間模様を醸し出し、格好の文学素材となったものであろう。
近年英国では、人間の射幸心は本能の一部であり、賭博を禁ずることは反って社会悪を増長させる原因となるので、或る程度満足させるため、1959年賭博法を改正し、「ギャンブル」を解禁した。しかし野放しではない。
法律によってコントロールすべきだが禁ずべぎでないと言う結論からであるが、実に積極的かつ先駆的判断で、このことは賭博絶対禁止の長い歴史に終止符を打ったものである。

モーターボート競走法
1.競走会の設立
戦後22年夏、大陸から引き揚げてきた私は祖国の惨状を見るにつけ、憂国の念断ちがたく悶々の日が続いた。
その後、たしか明治天皇のご落胤とか称する福島世根女史が、アメリカからボートレースのアイディアを持ち帰り、非公式ではあるがレースを試みていたことを知った。
祖国の復興再建を模索していた頃で、資源を輸入し、わが国、国民の勤勉、努力、節約の精神をもって優れた製品を輸出し、外貨を稼ぐことこそ再建の方途であると確信したから海国日本として海と船舶が先ず必要だと言う信念をもって、早速笹川良一氏を中心に同志と共にモーターボートレースの実現に情熱を傾けることとした。
ボートレースの実施は、あくまで戦争で廃墟と化した祖国の再建であるが、その手段として心理的には海事思想の普及に始まり、物的にはわが国の優れた造船技術を生かして、船舶の振興と共に貿易立国に着目したのである。
しかし、それには、賭け事を合法化したギャンブルの先進国とも云える英国の例に習いコントロールする法律が必要である。
更にわが国の場合、国土の殆んどが焦土と化し、疲弊困窮した地方財政の建て直しも必要だったのだ。

従って、法律の制定に当っては、その目的として、戦後の地方財政再建、壊滅した造船関連産業の振興を主体に、地域社会の活性化により国力を回復し、貿易を増進して産業を発展させ、国民生活の安定に重きを置かなければならなかった。
この目的に沿って、同志が一丸となり邁進着実な努力を積み重ねたものだが、決して平穏ではなかった。
全く暗中模索、幾多の困難を克服しなければならなかった想いは今は懐かしい。
本来、刑法で禁止されたギャンプルを、特別法を作って合法的に公認化しようと云うのだから、容易な作業で済むものでない位い覚悟はしていたが、実際には遥かに厚い壁であった。
色々な苦難史やエピソードもあるがここでは割愛する。
昭和26年、漸やく時限立法として成立したが、ギャンブル性をもったモーターボートレースは諸外国にも例がなく、役所を始め関係者も五里霧中で実施にあたったものだ。
なんと言ってもわれわれには、地方財政への寄与、船舶振興による祖国再建と言う錦の御旗があったもののその啓蒙も容易ではなかった。しかし逡巡は許されなかった。
公営競技として立法化された以上、あくまで公正な運営は勿論、明るく厳正で、秩序と規律を重んじなければならないと言うのが私の信念であった。
だから広島県モーターボート競走会設立に際し、最も心を砕いたのもそのことであった。
昭和27年創立、迂余曲折はあったが、30年私が会長に就任して幸い、副会長に元陸軍中野学校長であり、終戦当時の憲兵司令官だった石田乙五郎中将を迎え、また渋谷安雄元海軍主計大佐を監事に委嘱することができて本格的に発足した。
その他にも有名な同志が私を助け、堅実に、しかも厳格に職務を遂行してくれたればこそ今日の安定繁栄が築かれたものと確信し、今は故人になられた人もあるが、苦労を共にした同志に感謝の気持ちで一杯だ。

2.初開催の想い出
法案の成立と共に、施行権者や開催出来る場所探しがこれまた容易なことではない。
第一、ボートレースについての知識はゼロで、海のものやら山のものやら判らず、只好奇心と、甘い話に飛びつく連中ばかりで現実的な進捗は見られず焦慮するのみで、オーナーが出てこないため、止むなく私が物心両面に亘って面倒を見ることとなり、先ず施行者については、広島市、安芸郡坂町、宮島町等々の中から迂余曲折を経て宮島町に決定したが、施行自治体としての人口不足から、当時の大野町、玖波町、小方町、大竹町に共催への参加を求めなければならない事態を克服しなければならなかった。
元来、自治体は事業そのものに典味は持っても懐疑的で、資金の出場がなく、その上一般住民の風当りも強かったので、啓蒙する仕事も大変だった。
しかし漸く昭和29年8月14日自治庁の許可を得、開催場所も大野町宮島口(現在地)を選定した。
今にして想えば信じられない程、ボートレースに全精力をかけたものだ。
初開催の11月までに、ボート、競走場、観客席、投票所等施設面、また競技役員等人的面、加うるに資金面の準備万端が私の双肩にかかったが、
最後には、家族の理解と協力を得て私が所有していた東京中心の土地、家屋を売却して、初開催を迎えることができた想い出は生涯忘れ得ぬ感激であった。

3.40年を迎えて
ボートレース開設目的は、われわれが筆舌に尽し難い苦難を乗り越えた結果、予期以上の成果を挙げていることを喜ばざるを得ない。
わが国の造船業が世界最高の地位を占めるに至ったのも一例だが、地方自治体への寄与も大ぎい。

宮島競艇にしても、昭和29年度僅か80万円を1市2町に配分したが、10年後には年間1億円を、さらに51年度からは年々50億円以上の配分金が地域の振興に将亦福祉厚生、又青少年育成等に役立っているのである。
モーターボート業界全体の貢献額は膨大な額に達し、国家国民に多大な貢献を果していることを自負し、誇りに思っている。
しかし、新しい局面に対処する努力を忘れてはならない。
法目的とされた、海難防止や海事思想の普及、体育事業や青少年の育成は遠大で、多くの課題を持つ。
経済大国とは言え、1億余の人口が、狭陰にして、資源のない孤島にひしめぎあっている宿命は、少しも解決されたわけではない。そればかりか「海洋自由」の原則が失われ、海洋が分割領有される時代となった。
わが国の遠洋漁業は諸海域から締め出され、魚による動物性蛋白資源は枯渇する怖れすらある。
海洋民族として重大事だ。従って養殖を含む沿岸漁業の振興、人材の育成が待たれると同時に、自然との調和をはかりながら、海洋開発、海洋牧場の構想を進めなければならない。
さらに気がかりなのは、青少年の教育である。
国家発展の碁本は人づくりである。個人的知識、技能も心要だが、社会的価値観から徳育を重視した、人間教育を私は願望する。真摯に国の将来を考え、有為の人材を育成する崇高な使命感に燃える教師の活躍を期待してやまない。
そのためにも、われわれは、競艇事業の発展、所期目的完遂のために援助を惜しんではならない。
21世紀へ向けて、なすべきことはあまりにも多いが、生みの親の責務として、私は余生を捧げて行く覚悟だ。


4.誇りと自信
現在、ボートレースは公営競技中第一位と言う盛況に恵まれている。
そのことは地方財政や地域の振興にも大きく貢献していることだ。
しかし、意外にその認識がないことを憾むのであるが、受益自治体のPRも全くと言う程足りない。なぜなのか不可解に思う。
ある都市で豪華な美術館が完成した。
市民が待望した文化施設である。
一部の人は、自治体の財政規模からして、競艇収入のお陰だと理解し感謝しているが、大多数の者はそこまで判断していない。市当局もそれを言おうとはしない。
むしろ市民に対しては、政治力や財政努力を誇示したいのだろうが遺憾である。
競艇を主催する他都市でも、同様な手法で収益金にはこだわりながら、あえて糊塗した広報を流すのは残念なことだ。
しかし、それでもわれわれには陰徳を積み、地域のために、また、国家国民にとっても、極めて直結した公益事業であると言う自信と誇りを持って、昂然たる気持ちで精進しなければならない。
たとえ、われわれの仕事    が如何に地味なものであっても、法目的によって、収益金は地方財政を潤し、さらに付帯事業を通じて国家、社会に奉仕している    ことに異論はなく、やがて歴史が証明することである。
輝やかしい発展を遂げてきた競艇であるが、今後への課題も多い。
例えばファン層の拡大、施設やイベントレース内容の検討等々多様化の一途をたどるレジャー産業の進展に即応する柔軟な発想も必要である。
また、近々異国に於ても、競艇が実現する状況にあり、レースも国際化して来るであろう。
選手も一層精進練磨しなければならないが、われわれも、競艇元年の初心に還り、切磋琢磨して、ファンに夢とロマンを提供しなければならない。
世界選手権競走が、わが国で開催できる日を夢見て。

美しい日本と世界平和への夢
私の親友であり、尊敬する文学者林房雄君は、戦後も活発な創作活動を続けた。
その一節に「戦い敗れたりとはいえ、焼けたりとはいえ、祖国の四季と山河の中に、上御一人を戴き、親と共に、子と共に生きつづけて、遠い将来に再び正しく美しい世界の日本を再建するためのつつましい努力を続ける喜びと楽しみが存在す」と自ら日本人としての生きる幸せを説いている。
原爆で‘焦土と化した広島、世界平和のメッカである広島に住む私には、今は亡ぎ林君の「日本よ美しくあれ」と言う雄叫びが鮮明に焼きつぎ、消えることはない。日本よ美しくあれと望むことは、わが心よ美しくあれと願うことでもあり、人を責めることではない。己れ自らを責め、心の闇に射す一筋の光に喜びと生甲斐を見出すことである。
特に有名な哲学者フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」絶叫を想わせる文章である。
平和だけを叫んでも平和にはならない。
平和実現の原動力は美しい心である、美しい心こそが真の愛を育み、立派な社会、信頼される国家国民を生む。
従って、21世紀を呪む世界平和を構築しようとすれば、それぞれが先ず美しい心を持って話し合うことが必須の条件である。
わが国には、古い伝統文化と共に民族の悲願としてきた平和哲学がある。
「八紘為宇」の精神こそ肇国の口是とし天下に宣明して二千有余年になる。
時に歪曲され誤解されたこともあったが、真意は世界一家、人類兄弟姉妹であり、とりもなおさず、人間愛と美しい世界の創造であって、特に平和思想の根源である。
昨年から続く世界の激動、特にソ連邦の崩壊と冷戦の終結は、平和の理念をも変えた素晴らしい現象と言える、それは超大国米、ソが際限のない軍事力増強、優劣を競っても自国はもとより、
世界の平和も安定もない。寧ろ自国の国家財政を破綻に導き、国民生活をも圧迫する結果となったのだ。
最早、戦争と言う手段で平和を構築する時代は終った。
また、一国平和主義も成り立たない。
あくまで世界一家、人類兄弟姉妹の理念と愛をもって、美しい地球を創造しよう。
それには、普遍的な安全保障が必要で、そのための国連の役割は益々重要となってくる。
今後国連が、世界新秩序を構築し、平和活動を活発に行うためには、人的、物的に整備をすると共に、権限の強化も課題である。
しかし、われわれは、全人類の英知を結集して、成功させる使命がある。
八紘為宇の実現のため。

おわりに
想えば、私の人生は、明治、大正、昭和、平成への波乱に富んだ歴史そのもので、特に物心ついた大正、成人しての昭和は、大きな節目の中に必ずと言ってよい程登場しているから面白い。
ボートレースもその一つで、半世紀近い汗と涙の結品でもある。
喜びも、悲しみも踏み越えて築かれた今日の経済大国日本、無から有を生み、各方面に羅やかしい業績を挙げてきたボートレース業界であるが、大切なことは初心を忘れないことだ。
これからの日本が、アジア共栄のため、また、世界新秩序構築のため果す役割は大ぎい。
業界もこれまでの実績を生かして世界で活躍する人づくりに貢献できる。
美しい日本、繁栄する平和な世界の実現を夢見て筆を措く。
 

小説家「平林たい子」という方がいらっしゃる。

亡くなったのが、1972年なので、もう50年も前。

 

そして、さらに昔の写真が出てきました。

大正13年頃のお写真です。

 

画像の左側が岩田幸雄氏 (だいたいの計算上ですが、20歳くらいのようです)

そのお隣が、平林たい子さん。

 

平林たい子さんのWikiです。

 

 

 

 

写真を見つけました。

岩田幸雄の隣にいるのはどなただろう・・・と調べてみたら俳人の「中村汀女」さんでした。

 

元々、美術・芸術系に造詣が深いというか、興味があったのでしょうね。

芸術家や文壇たちとの交流は多かったように見えます。

 

画像からシッカリ調べてはいないけれど、昭和63年より前でしょう。

何かと幅の広い岩田幸雄氏です。

 

 

2020年5月26日

世界中が新型コロナ感染で落ち着かない状態のなか、「マカオのカジノ王」スタンレー・ホー氏(何鴻燊)が亡くなりました。

 

 

岩田幸雄氏とスタンレー・ホー氏の繋がりはよく分かりません。

1921年11月生まれで、第二次大戦中に日本企業に勤めていたことがあるといいますので、そのときに知り合ったのか???

なんにしろ、若い頃から交流があったのは間違いない。

謎です。。。。

 

岩田幸雄氏が若い頃にスタンレー・ホー氏を助けたとか??

逆に数ヶ国語を使えるホー氏が岩田幸雄を助けたか???

ホー氏は1921年生まれ。

幸雄氏は1904年生まれ。

幸雄氏が年上で17歳差・・・どんな交流だったんだろう・・・

 

分かりませんが、幸雄氏は時々香港に行っていたことや、若い頃の写真、岩田幸雄氏の晩年頃??に一緒に写っている写真から、結構深い関係だったのかな???と思えます。

これも、岩田幸雄氏もスタンレー・ホー氏も亡くなってしまいましたから、何も知る術がない・・・

 

いつか、両人をご存じの方とお話しすることが出来たらと思います。

コロナ禍がなくなったら、またマカオに行ってみたいと思います。(何もできないだろうけど)

 

大変な時代を生きて、マカオのためにご尽力された、スタンレー・ホー氏のご冥福をお祈りします。。。

 

 

時代との照らし合わせをしていないのだけど、

 

この書籍に「岩田幸雄」が登場していたので、ここで紹介しておこう。


P29

天皇発言の内容を、広島の民族主義者の岩田氏は親友だった杉山元氏から聞いたという。。。

杉山氏は戦争中、日本軍全体を指揮する参謀総長・元帥で太平洋戦争を推進した中心人物の一人である。

 

P202

岩田氏は大戦中、日本最強の情報機関を作って活躍した人。

世界各国の原爆開発の状況を命がけで探り、その実態を写した極秘フィルムさえ、ついに手に入れていた。

 

 

杉山元帥 → 岩田幸雄氏 → 河内正臣氏 → 五島勉(著者)

 

日本が原爆を開発しようとしていたが、昭和天皇は反対をしていた。。。というお話を上の流れで聞いたということをまとめた本。

・・・ザックリ書き過ぎですね。

 


岩田幸雄氏は、諜報活動によってソ連側の新兵器を撮影したフィルムを特殊工作により入手、杉山元帥に献納し表彰された。

 

そして、その極秘フィルムを基に原爆開発を進めよう!としていたが、陛下に諌められた・・・・ま、こういうお話らしい。

 

杉山元帥は、(端折りますが)その後に自決してしまいます。

 

そして、その事実を知っている岩田幸雄は時を経て、河内氏に話したということらしい。

 

どこまでが本当なのか、よく分かりませんが、岩田幸雄は諜報機関を持っていたのは事実。

そして、表彰されたのも事実。

賞状の内容を見る限りでは、かなりの内容だったのだろうと思います。

 

某作家さんにお聞きしたところによると、ロシアに「岩田機関の情報があるのは間違いない」と仰ってました。

 

さ、真実はいかに??????