便利な世の中になりました。
国立国会図書館のデジタルコレクションで「岩田幸雄」を検索すると昔よりもヒット数が増えていました。
早速、見ていくと…
1961年1月23日号の「週刊サンケイ」のオモシロイ記事が見つかりました。
(著作権を考慮して、画像は読めない状態でシルエットだけのUpです)


週刊サンケイ(1961年1月23日)
四つの島の王様~東シナ海に君臨した元日本人海賊
”雄大な海の不夜城”
「この事業の目的は瀬戸内海だけにとどまらず、さらに全世界の観光センターにすることだ」と岩田幸雄(56歳)はいう。
「瀬戸内海観光開発株式会社」というのがその会社名だが、事業の計画はなるほど雄大なものだ。
広島県佐伯郡大野町の沿岸約2,100坪(6,930平米)を埋め立て、そこに鉄筋5階建ての旅行会館を作り、さらに岬から約200mの海上に鉄筋8階建て立坪5,303坪(17,500平米)の観光ホテルを建設する。
だがこの規模がすごい。
旅行会館の方は約1,200名を収容する客室のほか、名店街、遊技場、映画館、演劇場、トルコ風呂、プールなどがあり、さらにヨットハーバーやヘリポートまで完備している。
また、観光ホテルはデラックスな客室は約300室。遊技場やトルコ風呂などの設備は会館と同じだが、二隻の専用遊覧船各180tによってホテルを中心に瀬戸内海を一周できる。
文字通り、海に浮かぶ”不夜城”を現出するわけだ。
総工費は約35億円。完成予定日は東京オリンピック前の昭和39年6月。
ちかく材料置き場の建設に着工するが、この雄大な事業計画には岩田氏の面目躍如たるものがあった。
というのは「海は全世界に通じる。世界を結ぶ観光センターは決して夢ではない」と断言する。
彼こそ、知る人ぞ知る終戦後、東支那海を暴れ回った支那海賊の首領だったのだ。
”舞妓に惚れられた中学時代”
岩田氏は明治37年、広島市で生まれた。
父 岩田万太郎氏は、士族商売の典型的人物だったという。
商売そっちのけで、明治20年には金1万円也を持って朝鮮に渡り、日韓貿易に尽くしたり、韓国亡命者を連れて帰国したり、政治運動に熱中したが、この父親の血を受け継いだ彼は若い時から大変な熱血漢だった。
9人兄弟の四番目の彼は東京の親類に預けられ、開城中学に通った。
その頃こんな話がある。当時、赤坂に「大月」という有名な料理屋があったが、そこの女将は岩田氏の祖父とは因縁浅からぬ仲だったので、彼は暇さえあれば遊びに行った。
ところが、「せくな騒ぐな天下のことは、しばし美人の膝枕」と唄った明治維新の志士気取りの、岩田少年に恋心を寄せた舞妓が現れたのだ。若い二人はたちまち仲良くなった。
岩田少年は土曜日に赤坂に泊まり、日曜日には彼女と歌舞伎座に行ったり銀ブラしたりといったスケジュールになった。
その頃彼は学校きっての暴れん坊で滅法ケンカが強かったそうだ。
ある日曜日、日比谷公園で他校生の一団と決闘することになった。
もちろん岩田少年は船頭だ。
しかし、彼の身を案じた舞妓は行かせまいとして、とっさに彼の靴を隠してしまった。
決闘の時間は迫る。
友達から卑怯者と言われるのは何よりも辛い。
ついに岩田少年は、玄関先にあった舞妓の履くボックリをつっかけて日比谷公園に駆けつけたのだ。
東北地方でぼっくりのことを「おマン下駄」というが、以来彼は「おマンちゃん」というあだ名がついてしまった。
現在でも岩田氏を知る人の間では、岩田のマンちゃんというのが通り名になっている。
彼ははじめ画家になろうと美術学校を希望したが、両親の反対で明治大学の法科に進んだ。
しかし、多情多感な青年の彼は、学校に通うよりも、神田のカフェやミルクホールで気炎を上げている方が多く、浮き名や勇名をはせて、「岩田のマンちゃん」といえば誰も知らぬものもないほどの、不良学生だった。
”上海を根城に謀略活動”
卒業後、彼の父が情熱を注いだ朝鮮に渡った。
目的は貧しい農漁村部の経営改善のため、知識の啓蒙をやるといったものだ。
それに伴う技術者7人を連れて清洲の「東亜義塾」という私学校を作った。
昭和12年7月 日支事変が勃発するや、急遽帰国し、外務省が企画した「汪精衛新政権樹立計画」に参加した。
それは、汪精衛を重慶から脱出させ、ハノイを経て東京へ連行する秘密工作だ。
そのため、岩田氏たち約20名の工作員は、東京の赤羽射撃場で連日、拳銃の練習に励んだ。
その拳銃は万一を考えて外国製のものばかりだった。
そして外務省公用のカバンに入れて密かに上海に運んだ。
いよいよ実行というところに、陸軍側から「オレたちに任せろ」という横ヤリが入って中止になったが、岩田氏はそのまま上海に残り、「岩田公館」を設置した。
国際都市上海に根拠を置いて広く経済情報を収集する一方、外交、軍事両面にわたる謀略活動をするためだ。
中国人、朝鮮人など300名を直属員とし。さらに数百名の下部組織とした大規模なものだった。
当時、岩田氏のほか、軍関係の戦略物資の集買機関もたくさんあったが、民間の岩田氏が圧倒的な好成績を上げていたという。
また、仕事の性質上、生命の危険に直面することは日常茶飯事のようなものだったが、その華々しい活躍ぶりから上海一のお金持ちと思われて、二度も義勇軍と称する匪賊に拉致されたそうだ。
”義を感じ、海賊たちを救う”
その彼が終戦後、東支那海の海賊王となったのは、次のようなイキサツからだった。
日本海軍は作戦上、東支那海の海賊を利用した。
その頃、彼らは林義和(りんぎわ)を首領とする集団と、陳阿古(ちんあこ)を指揮者とするグループの二派に分かれ、勢力を争っていたが、海軍はそれぞれ第一集団軍、第二集団軍と命名して、機関銃、迫撃砲、機帆船などを与えた。
ところが彼らは自派を有利にしようと、上層部である日本軍武官府にさかんに取り入ったらしい。
その結果、陳阿古の「林義和は密かに重慶と通じている」というザン訴を取り上げた現地の海軍武官府は林義和を逮捕し、これを逆さずりにして銃殺し、その部下たちを追放した。
彼らはかねて林義和と親交のあった岩田氏に救いを求めた。
”義を感じた”岩田氏は彼らをかくまった。
そのため、岩田氏は上海陸戦隊に逮捕されたが、この事件が陳阿古のつくり事であることが分かって、すべて無罪となった。
しかし、これを機に林義和の部下たち、第一集団軍の海賊たちは、岩田氏の慈父のごとく慕ったのだった。
終戦と同時に、蒋介石の国民政府軍は岩田氏に対する逮捕命令を出した。
上海は敗走する日本兵や帰国を急ぐ在留邦人たちで、みじめな混乱を繰り返していた。
岩田氏は中国の宦憲の目を逃れて転々と身をかくした。
正義の死をもって任じる支那浪人の中にも、自分が助かりたいばかりに岩田氏の居所を密告するものもあった。当時を解雇して、彼はこの時ほど私は情けなく思ったことはなかった。人間の弱さ、醜さを見せつけられて暗澹としたとしめめ語っていた。
かつて親しかった人たちも、彼の姿をみるいと官憲の嫌疑をおそれてソッポを向いた。
正義の士をもって任じる支那浪人のなかにも自分が助かりたいばかりに岩田氏の居所を密告するものもあった。
当時を回顧して、彼は「このときほど私はなさけなく思ったことはなかった。人間の弱さ、醜さをみせつけられて暗たんとした」と、しみじみ語っている。
”慕われた海賊を蔡徳海”
だが、失意のどん底にあった岩田氏に思いがけない幸運が舞い込んだのだ。
その頃、国民政府軍の第三戦正軍が浙江省の寧波にいたが、彼らはほとんど福建省出身だった。
中国軍の場合、兵隊の衣類、食料はその出身の省が賄わねばならない。
ところが福建省は山地が多く、寧波に通じる適当な道路がない。それに匪賊の横行も激しい。
といって輸送船で運べば、たちまち海賊の餌食になる。
頭を悩ました福建省主席の劉建忠氏がハタと膝をたたいたのが、岩田氏に頼んで東支那海のもと第一集団軍の海賊たちを動員することだった。
蘇州の居士林というお寺に蔡徳海と名乗って身を隠していた岩田氏は、直ちに海賊船に乗り込んだ。
彼を徳とする海賊たちは進んで部下になった。
本拠地は福瑶島、大嵛山島、小嵛山島、七星島の四つの島だ。
岩田氏は旧日本軍の武器で装備されたジャンク船約200隻、機帆船約5隻を指揮して福建省から寧波に物資を運ぶかたわら、台湾、東南アジア諸国と密貿易をやった。
四つの島の王様となった彼は、お寺や学校、公会堂などを建てたり、朝鮮時代の経験を生かして農業試験場を作ったり、新しい国づくりならぬ島づくりに努力したそうだ。
福建省から鎮重(日本で言えば村長)という肩書きをもらった。
しかし、彼の権限で住民たちから取ることができる牛や豚などの屠殺税や宗教税も取らなかった。
「偉い人は軽々しく動いてはいけないという中国の風習があるので、いつもどっしり構えていなければならない。タバコを吸うにも、食事をするにも、ゆったり手を動かすだけわけで、これには参った。外に出ればみんなに鷹揚で親愛を込めた挨拶をかえし、子供がいれば必ず頭を撫でてやる。私は女性は一切近づけなかったので、住民たちは尊敬していたようだ。」
”銃殺されたはずなのに…”
23年5月、突然、中央政府によって岩田氏は逮捕された。
彼の部下に台湾人が多かったところから、台湾の暴動事件を扇動したという容疑がかかったのだ。
岩田氏の逮捕に島の住民たちは不穏な動きを始めた。
逮捕に来た宦憲たちは、船の焼玉エンジンの音にも怯えて銃を乱射したという。
岩田氏の説得でやっと騒ぎはおさまったが、南京に連行される彼との別れを惜しむ海賊たちは、どこまでも護送船の周りに船を浮かべて送ってきた。
昭和23年10月、彼は無罪釈放となって中国政府の船で帰国した。
終戦から約3カ年、ようとして行方を絶っていた岩田氏の出現に、家族はもちろん、友人知人たちはみんな驚いた。
終戦直後"岩田幸雄 重慶軍により銃殺される"と新聞にも報道されたほどだから当然だった。
現在、岩田氏は「全国モーターボート競走連合会常任理事」「広島県モーターボート競走会会長」
「社会福祉文化事業団理事長」
さらに今度の瀬戸内海の観光開発事業と、大活躍だ。
千代夫人(43歳)との間には男3人、女6人の子供があり、円満な人格とともに恵まれた生活をおくっている。
「私は海とは切っても切れない縁がある。今度の仕事は私のライフワークだ」という岩田氏には、海賊王のファイトが燃えているようだ。
(天野陽三)