己斐の巻 其の四? | 悩めるアウトロー社長ライダー!

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広島史記傅説 己斐の巻

勝手に連載してますが、今回は其の四です。



孝心が築いた多宝塔 - 平和を祈る慈母観音の心


今一度、岩田幸雄氏の伝記小説”海賊”の発端を振り返ってみよう。

それには-法律家で身を立てようと、明治大学の法科に籍をおく岩木庄平は、根っからの赤嫌いであった。
学校を出るのを待ちかねるように、浜に出て沖仲士の親分となったある日、賃金の値上げ問題からスト回避運動に絡み、海員組合員に化けた赤の暴力団から日本刀で肩先を斬りつけられた・・・。

このエピソードでも語られる、氏の国家活動を貫く気丈な性格は、母タヅさんからの素質として強く氏の体に受け継がれたものである。


女手一つで家業の製餡業を守り、そのかたわら6人の子供を立派に育てあげたことは、財の如何にかかわらず、強い意志がなければ、到底貫き通し得るものではない。まず岩田家から説明を加えよう。


岩田家の原籍地は広島市榎の町である。
いまの天満橋を東に渡って、左-広瀬橋までの一帯を”旧市”といい、当時、中央市場の前身たる野菜市場があって、出荷する人、買って帰る人で賑わった。その旧市場が開かれる前、この一帯は岩田家の所有地で、一角に屋敷がありその屋敷内に一本の大きな”榎木”が空に梢を張っていた。

このため、ここは広島城下五ヶ庄のうち、広瀬組”榎町”と呼ぶようになった。岩田家は、広瀬の庄のうちで、生えぬきの家柄であり、地主さんでもあったが、先代萬太郎さんが手を出した米相場にしくじって、さしもの財産を人手に渡し、55歳で世を去ったのである。


あとに残された妻タヅさんは、長男現当主 正次郎(70歳)、長女チヨ(荒石家、65歳)、幸雄(63歳)、清兵衛(死亡)、冨士夫(55歳)、三吾(52歳)の五男一女を抱えて、家業の餡製造業にいそしんだ。 ※1

この餡は、小豆、隠元豆などをすりつぶし、これに砂糖をまぜて甘味をつけたもの、主に菓子、餅、しるこなどの製造業者に大卸しする仕事であるから、これらの業者が、その日の仕事をはじめるまでに、毎日決まった量を送ってやる必要がある。


そこで、朝早くから起きて製造をはじめ、次々大勢の使用人を督励して、定刻までに送り届けねばならなかった。その忙しいことは、毎日がまるで火事場のような有様であった。

このような猫の手も借りたいほどの家業をよそに、ひたすら未来の法学士さんに望みをかけて、二男幸雄さんを明治大学の法科に入学させたのである。

いまでこそ、亡父の米相場で財を散じたとはいえ、母タヅさんがリードする岩田家一家の向学の精神は、決して消えるものではなかった。


明治の母としての”逞しさ”は、少々の財の多寡で崩れ去るものではなかった。母タヅさんは、幸雄少年のうちに、自分の投影を見、愛情と獅子を谷に落とす厳しい教えから、氏の東京遊学へ承諾を与えたものと思われる。
母タヅさんは愛する六子に対し、母の愛情とともに、亡き父に代わる剛の二面を兼ね備えていたものであろうか。

上京した青年期の愛児の上には、昭和初期の激動の歴史が待ち受けていた。

そこには坦々たる平安の大道があるはずはなかった。幾多の紆余曲折を経て、前記小説のような中国大陸への雄飛となったのである。

これに対する母タヅさんの想いは、どうであっただろうか。

国家のために一身を捧げて中国大陸をかけめぐる愛児幸雄。わが子を手元に呼び寄せたい母としての柔、亡き父親に代わり、御国のために挺身するわが子を持った誇り、と激励-その二つの想いが母タヅさんをして観音様への祈りとなって統一されたのではあるまいか。


※1 岩田幸雄の年齢、その兄弟の年齢はこの文が書かれた当時のもののようです。

また、この文が書かれたのは、今 日出海の”海賊”が出版された翌年 昭和42年ではないかと思われます。