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妊娠から死産までのざっとした経緯はこちら
ラミナリアの痛みを最大限排除した方法はこちら
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ぱんぽこの誕生日まであと3日です。
去年、子宮内胎児死亡を宣告されてから死産までの期間は雨でした。
死産後も雨がダラダラと降っていて、何て雨のよく降る地域なんだろうと思ったような気がします。
【2015年4月11日(土)】
2015年4月11日に子宮内胎児死亡を宣告された日は土曜日ということもあって、すぐに入院しませんでした。
すぐに入院したところで、処置は13日の月曜日からだったからというのもあります。
でもそんなことよりも、気持ち的に納得できなかったというのが最も大きかったかもしれません。
いきなり
「心臓が停止しています。
つまり亡くなっています。
すぐに出産しましょう。」
と言われても、当時の私にはまず「心停止」を受け入れることが出来ませんでした。
その前日の時点で元気な心音を確認していますし、そもそも少しでも胎動があったら大丈夫だと言われていたし。
出産後のことも色々考えていたし、それらが全部白紙だと言われても……。
11日、12日の土日の間に夫と沢山話し合いました。
とにかく時間が限られていて、ここで一つでも判断を他人に委ねてしまうと一生後悔するような気がして、とにかく色々と考えました。
【2015年4月12日(日)】
医学的にいくら「死亡と言われても納得できませんでした。
娘はいったいどこに行ったのか?
教会に行きたくなりました。
夫が神父さんに急遽連絡をし、11時30分に教会へ行きました。
教会を出た後も家にいたくなくて、夫にどこかに連れて行ってほしいとお願いしました。
そして家族3人で最後の旅行をすることにしました。
【2015年4月13日(月)】
結果、13日(月)の診察の時に、当時の担当医ではない先生にも診てもらうことにしました。
診てくれたのは医局長。
穏やかな先生で、子宮内胎児死亡したからなのかわかりませんが、しっかりと話しを聞いてくれました。
これまでのこの病院のイメージは、
「産婦人科は忙しいから妊婦健診以外は頑なに診てくれない」
「妊婦健診の時であっても問診の時間は少ない」
「産婦人科の事務は大きなミスをよくする」
「先生はあまり話しを聞いてくれない」
「常に自己責任と言われ突き放される」
「冷たい先生が多い」
こういったものでした。
だから、親身になって話を聞いてくれる医局長と話をして
「こんな先生もいたんだ。
最初からこの先生に診てもらっていたら、何かが違ったかもしれない。」
と思いました。
医局長はわかりやすく説明してくれました。
時には分厚い本を出して説明してくれました。
私たち夫婦が次々とする質問に対しても、一つ一つ丁寧に答えてくれました。
これまでのこの病院とは思えないような真摯で丁寧な対応でした。
10ある疑問を、10質問させてもらえて、しかもそれに対して丁寧に答えてくれるなんて。
当たり前のことかもしれませんが、とてもありがたく感じました。
午前中にしっかりと医局長に診てもらった後、この医局長に2つのお願いをしました。
一つは、これまでの担当医にも今日エコーなどで診てもらって見解を聞きたいということ。
そしてもう一つは、この辺りの権威でもあるB病院に紹介状を書いてもらいたいということ。
医局長はすんなりOKしてくれました。
この後、これまでの担当医にも診てもらいました。
が、とても驚くものでした。
私たち夫婦の顔を見ずに殆どパソコンの画面ばかり見ながら、他の医師から報告を受けた子宮内胎児死亡を自分の目でも確認しようとせずに、死産に関する事務的な話しを一方的にしてきたのです。
当然ながら労りの言葉も一切ありません。
全く感情が入っていないというのがぴったり表現だと思います。
私たち夫婦が口をはさむ余地もないくらいに少し早口に、一呼吸もおかずにしゃべっていました。
意識的にそうしていたんだと思います。
この担当医の立場を考えると、気まずかったことは沢山あったんだろうと思います。
子宮内胎児死亡直前に受信拒否をしたことなどこれまでの経緯を考えると、私たちが口汚く罵ってもおかしくない状況だったので、そういったことも覚悟されていたのかもしれません。
「私のせいではないのに」という思いもあったかもしれません。
先生が一方的に事務的な話しをしていた時間は、とても長い時間に感じました。
話を聞いていると、「入院の手続き→処置の方法→何日で出産」と話しが進んでいきます。
「え?これまでずっと診てきてくれたのに、自分の目で本当に心停止しているのかを確認しようともしないの?」
「そもそも医局長にお願いしたのは、死産に関する手続きではなく、担当医にエコーで診てもらって見解を聞きたいということだったのに?」
と、思いました。
夫も同じことを思ったんじゃないでしょうか。
なぜこの担当医にエコーでもう一度診てもらいたいと医局長にお願いしたかというと、胎児の大きさを測ってもらいたかったからです。
最後に担当医に胎児の大きさを計測してもらったのは、4月6日です。
子宮内胎児死亡宣告が4月11日。
そして今日が4月13日。
6日~11日の間にどれくらい胎児が成長しているのかを診てもらいたかったんです。
医局長によると、医師の癖が出るので胎児の大きさの計測には微妙なズレがあるそう。
だから同じ人が計測したほうが良いということを言われていたので、ならば担当医に計測してもらいたいと希望したのでした。
6日と13日時点のこの成長の具合の差を知ることで、子宮内胎児死亡がもしかしたら10日の夜だった(夕方には心拍確認している)とか、もしかしたら心音が確認できないだけで本当はまだ生きているとわかるかもしれないと思ったのです。
担当医の一方的な話しを全部聞いた後に、
「エコーで大きさを診てもらいたい」
とこちら側から切り出しました。
もう記憶が定かではありませんが、エコーでの診断はこの担当医は医局長と同じ見解でした。
「心拍停止。子宮内胎児死亡。」
胎児の大きさは、6日時点よりも確かに大きくなっていました。
でもそれは、「6日~11日までの成長と11日~13日までに浸軟が進んでいるせいかもしれない」、という内容を言われたように記憶しています。
担当医に診てもらった後、再び医局長に診てもらい、B病院への紹介状を書いてもらいました。
帰る頃には夕方近くだったかもしれません。
B病院の紹介状を手に帰宅しました。
B病院には翌日14日(火)の12時半に来てくださいと言われたような気がします。
人気が高く、なかなか予約がとれないと噂だったB病院。
この病院からB病院に転院しようとしたものの、週数が進んでいたために転院が出来なかったことがあります。
それが次の日に予約がとれるなんて皮肉なものだと思った記憶があります。
13日の夜、夫に
「まだ生きているかもしれない!親が信じないでどうするの?」
と泣いて訴えました。
夫は
「でもね、残念なことにもう心臓が動いていないんだよ。可哀想なんだけど……。」
と声をつまらせながら私を諭しました。
が、夫もどこかで「もしかしたら」を信じるようになったような気がします。
【4月14日(火)】
紹介状を手に、B病院のある先生のもとに行きました。
この日には、大分「あきらめ」というか「死の受け入れ」が進んでいました。
B病院での見解も、前の病院と同じでした。
「子宮内胎児死亡」。
この先生もとても丁寧な先生でした。
私たち夫婦の話しをしっかりと聞いてくれました。
もしかしたら何度も同じような質問をしたかもしれないのに、しっかりと丁寧に答えてくれました。
私たち夫婦は、前の病院ではなくこのB病院で出産したいという気持ちが大きくなりました。
しかもB病院には無痛分娩があります。
夫の判断で、私はB病院の無痛分娩での死産をすることにしました。
私は金額が跳ね上がる無痛分娩には抵抗がありました。
でも夫が、肉体的苦痛は精神的苦痛に繋がると判断し、無痛分娩にしようと言いました。
決まったのは4月14日の夜のことです。
B病院にも昼過ぎからいて、病院を出たのは夜でした。
【2015年4月15日(水)】
この日から入院。
この病棟では、今週死産するのは私を含めて3人目だと聞きました。
景色のいい窓と小さなシャワー室とトイレがある個室に入りました。
夫も仮設ベッドを借りてこの部屋で出産まで寝泊まりすることになりました。
とにかく泣いて過ごしました。
夕方には一回目のラミナリア処置をしました。
【2015年4月16日(木)】
午前中に2回目のラミナリア処置。
夕方に3回目のラミナリア処置をしました。
早ければ17日(金)、遅くても18日(土)か19日(日)には生まれるだろうと言われました。
いよいよ明日対面できるかもしれない。
悲しみもありましたが、お腹の中で可愛く暴れていた自分の子どもを見るのがとても楽しみで「早く会いたい」という気持ちもありました。
とても不思議です。
この気持だけは、絶望の中での大きな希望だったんです。
そして翌日、陣痛促進剤を入れて出産することになります。
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いつもブログを読んで下さりありがとうございます。
いいねやコメント、また読んでくださるだけで励みになっています。
このブログは、可愛いぱんぽこの思い出と、自分の心の整理と、情報が少ない死産後のことが少しでもお役に立てばと思って更新しています。
私はまだ精神状態が不安定で、人に気が使える状態ではありません。
このブログは、死産・流産・不妊などで悩んでいる方が多く読んでくださっているかと思います。
不快な表現があったら大変申し訳ありません。
読んでくださっている全ての皆様に、穏やかな明日がくることを願っています。
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2015年4月11日に子宮内胎児死亡を宣告された日は土曜日ということもあって、すぐに入院しませんでした。
すぐに入院したところで、処置は13日の月曜日からだったからというのもあります。
でもそんなことよりも、気持ち的に納得できなかったというのが最も大きかったかもしれません。
いきなり
「心臓が停止しています。
つまり亡くなっています。
すぐに出産しましょう。」
と言われても、当時の私にはまず「心停止」を受け入れることが出来ませんでした。
その前日の時点で元気な心音を確認していますし、そもそも少しでも胎動があったら大丈夫だと言われていたし。
出産後のことも色々考えていたし、それらが全部白紙だと言われても……。
11日、12日の土日の間に夫と沢山話し合いました。
とにかく時間が限られていて、ここで一つでも判断を他人に委ねてしまうと一生後悔するような気がして、とにかく色々と考えました。
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医学的にいくら「死亡と言われても納得できませんでした。
娘はいったいどこに行ったのか?
教会に行きたくなりました。
夫が神父さんに急遽連絡をし、11時30分に教会へ行きました。
教会を出た後も家にいたくなくて、夫にどこかに連れて行ってほしいとお願いしました。
そして家族3人で最後の旅行をすることにしました。
【2015年4月13日(月)】
結果、13日(月)の診察の時に、当時の担当医ではない先生にも診てもらうことにしました。
診てくれたのは医局長。
穏やかな先生で、子宮内胎児死亡したからなのかわかりませんが、しっかりと話しを聞いてくれました。
これまでのこの病院のイメージは、
「産婦人科は忙しいから妊婦健診以外は頑なに診てくれない」
「妊婦健診の時であっても問診の時間は少ない」
「産婦人科の事務は大きなミスをよくする」
「先生はあまり話しを聞いてくれない」
「常に自己責任と言われ突き放される」
「冷たい先生が多い」
こういったものでした。
だから、親身になって話を聞いてくれる医局長と話をして
「こんな先生もいたんだ。
最初からこの先生に診てもらっていたら、何かが違ったかもしれない。」
と思いました。
医局長はわかりやすく説明してくれました。
時には分厚い本を出して説明してくれました。
私たち夫婦が次々とする質問に対しても、一つ一つ丁寧に答えてくれました。
これまでのこの病院とは思えないような真摯で丁寧な対応でした。
10ある疑問を、10質問させてもらえて、しかもそれに対して丁寧に答えてくれるなんて。
当たり前のことかもしれませんが、とてもありがたく感じました。
午前中にしっかりと医局長に診てもらった後、この医局長に2つのお願いをしました。
一つは、これまでの担当医にも今日エコーなどで診てもらって見解を聞きたいということ。
そしてもう一つは、この辺りの権威でもあるB病院に紹介状を書いてもらいたいということ。
医局長はすんなりOKしてくれました。
この後、これまでの担当医にも診てもらいました。
が、とても驚くものでした。
私たち夫婦の顔を見ずに殆どパソコンの画面ばかり見ながら、他の医師から報告を受けた子宮内胎児死亡を自分の目でも確認しようとせずに、死産に関する事務的な話しを一方的にしてきたのです。
当然ながら労りの言葉も一切ありません。
全く感情が入っていないというのがぴったり表現だと思います。
私たち夫婦が口をはさむ余地もないくらいに少し早口に、一呼吸もおかずにしゃべっていました。
意識的にそうしていたんだと思います。
この担当医の立場を考えると、気まずかったことは沢山あったんだろうと思います。
子宮内胎児死亡直前に受信拒否をしたことなどこれまでの経緯を考えると、私たちが口汚く罵ってもおかしくない状況だったので、そういったことも覚悟されていたのかもしれません。
「私のせいではないのに」という思いもあったかもしれません。
先生が一方的に事務的な話しをしていた時間は、とても長い時間に感じました。
話を聞いていると、「入院の手続き→処置の方法→何日で出産」と話しが進んでいきます。
「え?これまでずっと診てきてくれたのに、自分の目で本当に心停止しているのかを確認しようともしないの?」
「そもそも医局長にお願いしたのは、死産に関する手続きではなく、担当医にエコーで診てもらって見解を聞きたいということだったのに?」
と、思いました。
夫も同じことを思ったんじゃないでしょうか。
なぜこの担当医にエコーでもう一度診てもらいたいと医局長にお願いしたかというと、胎児の大きさを測ってもらいたかったからです。
最後に担当医に胎児の大きさを計測してもらったのは、4月6日です。
子宮内胎児死亡宣告が4月11日。
そして今日が4月13日。
6日~11日の間にどれくらい胎児が成長しているのかを診てもらいたかったんです。
医局長によると、医師の癖が出るので胎児の大きさの計測には微妙なズレがあるそう。
だから同じ人が計測したほうが良いということを言われていたので、ならば担当医に計測してもらいたいと希望したのでした。
6日と13日時点のこの成長の具合の差を知ることで、子宮内胎児死亡がもしかしたら10日の夜だった(夕方には心拍確認している)とか、もしかしたら心音が確認できないだけで本当はまだ生きているとわかるかもしれないと思ったのです。
担当医の一方的な話しを全部聞いた後に、
「エコーで大きさを診てもらいたい」
とこちら側から切り出しました。
もう記憶が定かではありませんが、エコーでの診断はこの担当医は医局長と同じ見解でした。
「心拍停止。子宮内胎児死亡。」
胎児の大きさは、6日時点よりも確かに大きくなっていました。
でもそれは、「6日~11日までの成長と11日~13日までに浸軟が進んでいるせいかもしれない」、という内容を言われたように記憶しています。
担当医に診てもらった後、再び医局長に診てもらい、B病院への紹介状を書いてもらいました。
帰る頃には夕方近くだったかもしれません。
B病院の紹介状を手に帰宅しました。
B病院には翌日14日(火)の12時半に来てくださいと言われたような気がします。
人気が高く、なかなか予約がとれないと噂だったB病院。
この病院からB病院に転院しようとしたものの、週数が進んでいたために転院が出来なかったことがあります。
それが次の日に予約がとれるなんて皮肉なものだと思った記憶があります。
13日の夜、夫に
「まだ生きているかもしれない!親が信じないでどうするの?」
と泣いて訴えました。
夫は
「でもね、残念なことにもう心臓が動いていないんだよ。可哀想なんだけど……。」
と声をつまらせながら私を諭しました。
が、夫もどこかで「もしかしたら」を信じるようになったような気がします。
【4月14日(火)】
紹介状を手に、B病院のある先生のもとに行きました。
この日には、大分「あきらめ」というか「死の受け入れ」が進んでいました。
B病院での見解も、前の病院と同じでした。
「子宮内胎児死亡」。
この先生もとても丁寧な先生でした。
私たち夫婦の話しをしっかりと聞いてくれました。
もしかしたら何度も同じような質問をしたかもしれないのに、しっかりと丁寧に答えてくれました。
私たち夫婦は、前の病院ではなくこのB病院で出産したいという気持ちが大きくなりました。
しかもB病院には無痛分娩があります。
夫の判断で、私はB病院の無痛分娩での死産をすることにしました。
私は金額が跳ね上がる無痛分娩には抵抗がありました。
でも夫が、肉体的苦痛は精神的苦痛に繋がると判断し、無痛分娩にしようと言いました。
決まったのは4月14日の夜のことです。
B病院にも昼過ぎからいて、病院を出たのは夜でした。
【2015年4月15日(水)】
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この病棟では、今週死産するのは私を含めて3人目だと聞きました。
景色のいい窓と小さなシャワー室とトイレがある個室に入りました。
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とにかく泣いて過ごしました。
夕方には一回目のラミナリア処置をしました。
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夕方に3回目のラミナリア処置をしました。
早ければ17日(金)、遅くても18日(土)か19日(日)には生まれるだろうと言われました。
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