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妊娠から死産までのざっとした経緯はこちら
ラミナリアの痛みを最大限排除した方法はこちら
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今日5月17日で、ぱんぽこを出産して1ヶ月。
昨夜は教会でぱんぽこの為に、ミサをしてもらいました。
今はとにかくじっとしていられないんですよね。
ぱんぽこの為に何かしてあげたいんです。
縁があって私たちが結婚式を挙げたカトリックの教会。
そして退院後にぱんぽこのお葬式を挙げてもらった教会。
広くて天井の高い神聖な聖堂で、神父さんと夫と私で約1時間、ぱんぽこの為に祈りを捧げました。
私たち夫婦よりもはるかに神様に近い所にいるぱんぽこ。
私たちにぱんぽこの姿は見えないけど、親として、きっとぱんぽこを側で守ってくれている神様にお願いをしたいんです。
どうぞ可愛いぱんぽこをよろしくお願いしますって。
ここまで親が一生懸命愛している子どもなので、どうぞどうぞよろしくお願いしますって。
どれだけ私たちがぱんぽこのことを可愛く思っているのか、神様に知ってもらいたいんです。
ミサの後、神父さんと3人でお話しをしました。
と言っても、私は涙がなかなか止まらず殆どしゃべませんでした。
でも夫が私の気持ちなども含めてしゃべってくれました。
カトリックでは、亡くなった人はまたこの世に生まれ変わるという考えではないようです。
神様のもとで、苦しみや悲しみから解放されて永遠に生きられるそうです。
だから苦しみや悲しみのあるこちらの世界に帰ってくる必要ないと。
もう一度ぱんぽこの魂が宿った赤ちゃんを生みたい、という希望を持っている私にはとても複雑な気持ちがします。
ある友人の話を思い出しました。
友人は配偶者を亡くしています。
病気や事故ではありません。
自殺で亡くしているのです。
「あそこでこうしていれば」
「なんであの日に限ってこうしなかったのか」
と思ったことが沢山あったようです。
それはそれは想像を絶する辛さと苦しさだったと思います。
私がその話しを聞いた時は、友人が配偶者を亡くしてから10年位経っていましたが、明るくしゃべる友人に、なんという言葉をかけたらいいのか言葉が見つかりませんでした。
でもその友人の話で最も印象的だったのが、
「死」を尊重するという話し。
亡くなった人を生きているかのように扱わない。
「見守っている」とか「心の中で生きている」とか、そうは思わない。
そう言っていました。
「死」は「死」として認めることが、故人を尊重することに繋がるのかな?
ならば私もいつかぱんぽこの「死」を完全に受け入れる日がくるのだろうか。
受け入れることによって、
「ぱんぽこの代わりはいなかった」
「ぱんぽこは誰にもかえることの出来ない唯一無二の存在」
という風にぱんぽこという個人をを尊重できるのかな。
わかりません。
わからないというか、まだ完全にそう思えない。
認めるのが怖いんです。
それを認めてしまうと、もうぱんぽこに会えないんじゃないかと思うから。
今は私の納得のいかない想いと、ぱんぽこが急にいなくなった寂しさ辛さ、心の整理が出来ていない混乱状態の頭、どうしてもまたぱんぽこに会いたい気持ちが強いことなどから、私はぱんぽこがまたお腹に戻ってきてくれるのでは?と思ってしまう。
希望を持ってしまう。
「死んだ、もうこれで終わり」
よりは、
「また生まれ変わってこの世で会える」
と思った方が心が楽だから。
でも心のどこかでは、
「それでいいんだろうか?」
と思うこともあるんです。
とてもややこしいんですが、「ぱんぽこには私たちの子どもとしてもう一度生まれ変わってもらいたい」、でも「誰にもかえるのことの出来ないぱんぽこの 死 も尊重しないといけないのではないか」という思いもある。
希望は持ちたいけど、尊重もしてあげたい。
最近はこの2つの思いに揺れるんです。
一概にどちらがいい考えだとか、悪い考えだとかはないはずです。
どちらが正しい考えなのか、どちらが間違った考えなのかということもないはずです。
こちらでないといけない、ということもないはずです。
色んな考えがあっていいと思うんです。
自分で悩んで苦しんで、たどり着いた結果に意味があるような気がします。
自分の気持ちがどこかで納得できればいいはずなんです。
私はまだ自分が納得できる答えに100%振り向けていません。
話しは昨夜の教会に戻ります。
お葬式の時、神父さんにぱんぽこの命名書のようなものをお渡ししました。
部屋に置いてくれているそうです。
神様に近い所にいる方が、ぽんぽこのことを気にかけてくれている。
とてもありがたいことです。
教会に行ってお祈りし、神父さんの話を聞いていると心が少し落ち着きます。
でもまだ混乱から抜け出せていない、抜け出せる感じもしない、出産からの1ヶ月。
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昨夜は教会でぱんぽこの為に、ミサをしてもらいました。
今はとにかくじっとしていられないんですよね。
ぱんぽこの為に何かしてあげたいんです。
縁があって私たちが結婚式を挙げたカトリックの教会。
そして退院後にぱんぽこのお葬式を挙げてもらった教会。
広くて天井の高い神聖な聖堂で、神父さんと夫と私で約1時間、ぱんぽこの為に祈りを捧げました。
私たち夫婦よりもはるかに神様に近い所にいるぱんぽこ。
私たちにぱんぽこの姿は見えないけど、親として、きっとぱんぽこを側で守ってくれている神様にお願いをしたいんです。
どうぞ可愛いぱんぽこをよろしくお願いしますって。
ここまで親が一生懸命愛している子どもなので、どうぞどうぞよろしくお願いしますって。
どれだけ私たちがぱんぽこのことを可愛く思っているのか、神様に知ってもらいたいんです。
ミサの後、神父さんと3人でお話しをしました。
と言っても、私は涙がなかなか止まらず殆どしゃべませんでした。
でも夫が私の気持ちなども含めてしゃべってくれました。
カトリックでは、亡くなった人はまたこの世に生まれ変わるという考えではないようです。
神様のもとで、苦しみや悲しみから解放されて永遠に生きられるそうです。
だから苦しみや悲しみのあるこちらの世界に帰ってくる必要ないと。
もう一度ぱんぽこの魂が宿った赤ちゃんを生みたい、という希望を持っている私にはとても複雑な気持ちがします。
ある友人の話を思い出しました。
友人は配偶者を亡くしています。
病気や事故ではありません。
自殺で亡くしているのです。
「あそこでこうしていれば」
「なんであの日に限ってこうしなかったのか」
と思ったことが沢山あったようです。
それはそれは想像を絶する辛さと苦しさだったと思います。
私がその話しを聞いた時は、友人が配偶者を亡くしてから10年位経っていましたが、明るくしゃべる友人に、なんという言葉をかけたらいいのか言葉が見つかりませんでした。
でもその友人の話で最も印象的だったのが、
「死」を尊重するという話し。
亡くなった人を生きているかのように扱わない。
「見守っている」とか「心の中で生きている」とか、そうは思わない。
そう言っていました。
「死」は「死」として認めることが、故人を尊重することに繋がるのかな?
ならば私もいつかぱんぽこの「死」を完全に受け入れる日がくるのだろうか。
受け入れることによって、
「ぱんぽこの代わりはいなかった」
「ぱんぽこは誰にもかえることの出来ない唯一無二の存在」
という風にぱんぽこという個人をを尊重できるのかな。
わかりません。
わからないというか、まだ完全にそう思えない。
認めるのが怖いんです。
それを認めてしまうと、もうぱんぽこに会えないんじゃないかと思うから。
今は私の納得のいかない想いと、ぱんぽこが急にいなくなった寂しさ辛さ、心の整理が出来ていない混乱状態の頭、どうしてもまたぱんぽこに会いたい気持ちが強いことなどから、私はぱんぽこがまたお腹に戻ってきてくれるのでは?と思ってしまう。
希望を持ってしまう。
「死んだ、もうこれで終わり」
よりは、
「また生まれ変わってこの世で会える」
と思った方が心が楽だから。
でも心のどこかでは、
「それでいいんだろうか?」
と思うこともあるんです。
とてもややこしいんですが、「ぱんぽこには私たちの子どもとしてもう一度生まれ変わってもらいたい」、でも「誰にもかえるのことの出来ないぱんぽこの 死 も尊重しないといけないのではないか」という思いもある。
希望は持ちたいけど、尊重もしてあげたい。
最近はこの2つの思いに揺れるんです。
一概にどちらがいい考えだとか、悪い考えだとかはないはずです。
どちらが正しい考えなのか、どちらが間違った考えなのかということもないはずです。
こちらでないといけない、ということもないはずです。
色んな考えがあっていいと思うんです。
自分で悩んで苦しんで、たどり着いた結果に意味があるような気がします。
自分の気持ちがどこかで納得できればいいはずなんです。
私はまだ自分が納得できる答えに100%振り向けていません。
話しは昨夜の教会に戻ります。
お葬式の時、神父さんにぱんぽこの命名書のようなものをお渡ししました。
部屋に置いてくれているそうです。
神様に近い所にいる方が、ぽんぽこのことを気にかけてくれている。
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でもまだ混乱から抜け出せていない、抜け出せる感じもしない、出産からの1ヶ月。
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