地震から8カ月 | ぱん・ぱん・ぱーん

ぱん・ぱん・ぱーん

大好きなパンと作ったものの記録です

 

昼間は温かくても、朝の気温はヒトケタになり、すっかり寒くなってきました。
暦の上では春だった3月11日のあの日も、寒かったな~

宮城県議会選挙の選挙カーが以前と同じように走り、何もなかったような錯覚を覚えますが、
他県の応援パトカーや、福島ナンバーの車を多く見かけるし、
道路も未だにデコボコのままで、運転には要注意です。

 

数日前、津波の被害があった地区を車で走っていたら、当時の様子が鮮明に浮かんできました・・・。

片側3車線の道路が、一面濡れた海砂で覆われてー、
一車線がノロノロした速度でやっと通行できる感じでー、
他の二車線は、つぶれた多くの車やガレキで覆われていました。

今では、その道沿いの大型店は、復活して活気を取り戻していたけれど、
未だにそのままのお店や、津波の威力で曲がったままの標識やガードレール、ガレキの山を見ると
なんとも言えない、重苦しい気持ちになりました。

 

・・・当時は、たくさんの人が助けを待っていた場所・・・

 

人は時間の経過と共に、記憶が薄らいでくるものだけれど、
「あの出来事」、「非日常の数々」、「常識が通じない数々の日々」は、
私の中で、決して忘れていけないのだと感じています。
(宮城県 死者9502人 行方不明者1995人 11月11日現在)

 

地元紙の河北新報では、多くの犠牲者を出した地震の記憶を残そうと、当時の様子を募集しているよう。
新聞では見れなかった、個々の生活の場の状況がわかります(河北新報はコチラ ヤフーはコチラ

めちゃめちゃになった車、道路、家。
食糧を買い求めて、朝早くから長蛇の列を作る人々。
今思えば、水素爆発して放射能が降り注いでいた頃で、
何も知らずに無防備に外出や、地震の片付け、水道水を飲んでいたな~

食に対する放射能検査はもっと精密にしてほしいものです。

 

お役所の広報誌で、給水場所の案内や災害への各家庭の備えが書いていありました。
一緒に、津波からの避難の手引も配られ、津波避難エリアⅠ・Ⅱに分類。
大津波警報時は、津波避難エリアⅠ・Ⅱが避難指示が、
津波警報時は、津波避難エリアⅠのみが避難勧告になるそうです。

同時に、国土地理院が調べた津波到達ラインも載っていたのですが、
私が思っていたよりも、近くまで津波が迫っていたのにビックリしました。

津波の被害にあった親戚や友達の住んでいる所は、実際に行ってその光景を目にしていましたが、
自分の近くは、あまりにも土地感が有り過ぎて耐えられそうにもないので行く事を避けていました。
・・・7カ月も経って、「ここも?」「こっちにも?」と現実を知り、驚いています。