道徳の学びはどこに… 健忘録も兼ねて | 徒然なるままに…

徒然なるままに…

未診断とはいえ、絶対ADDの私。
夫もアスペルガーだろうから、
息子は発達障害のサラブレッド!
そんな私の日々の小さな喜びや躓きを
思いつくままに書いてみています。

 

今日の公開講座は「道徳」に関するもの。

息子の道徳の教材がいいなあと思いつつも、

忙しさを言い訳に、じっくり見てこなかった私。

でも、前から学校教育って、

こういう学びがあっていいなあと思っていた。

 

今日の道徳の歴史は「教育勅語」に始まり、

人が天皇のために命を捧げることがを推奨され、

模範とされた悪しき時代から、

戦後の改革の一環で道徳は社会科に含まれる

という過渡期もあった。

アメリカはその道徳観を培う役割を

家庭や教会で担うという文化があったが、

日本にはそれがなく、不十分であり、

道徳を学ぶ必要性があると見做されたため

「道徳」という教科の独立がなされた。

 

しかし、私たちが子どもの時代の道徳教育は、

他の授業の遅れを調整したり、

クラス内でのトラブルや問題を解決するための

時間となってスポイルされた…、

TVを見て終わりだったり、

話し合いがなされても模範となる倫理観を教えられ、

暗黙の了解でそれに賛同せざるを得なかったりと

本来の目的からはかけ離れた、

とても「主体的で有用なもの」とは言い難かった。

 

だからこそ、今、

道徳という科目を、教育として

きちんとその重要性を説き、

それが何かを知る必要がある。

 

道徳とは「人としてのあるべき姿」、

「生き方を見つめ直すこと」であり、

カウンセリング機能」がなければならない。

「自分をどう思っているのか」を知り、

「自省し、自分が生きていく上での
方向性を見つけていく」ことが大切である。

道徳は「教える」もの、

「覚える」ものではない。

 

「自己の確立」のため
「自己を振り返り、

 望ましいあり方を自らの意思で考える」

言動に責任を持つ」ためのものである。

「修身」のように教えるのではない。

教えることは、意図的な操作により、
政治的刷り込みやマインドコントロールという

恐ろしい一面を孕む。

そうであってはいけない。



現代は人間関係の希薄化や孤立、
分断と格差の時代である。
その不安や不満の解消、

自身の安定のために他者を攻撃したり、
自己有用感、自己肯定感、

自己効力感が下がっている。


「シンギュラリティ」
ソサエティ5.0」

など、AIの進歩が目覚ましく

人間が人間の価値を見失いがちになる。

 

AIchatに傾倒し、

その誘導で命を落とした人もいる。

 

 

そんな時代に

「きみたちはどう生きるか」

 

主体的に生きる

自分と向き合い、賢明な選択ができること

自己の確立が不十分だからこそ

自分との対話による自己の確立が必要!

 

道徳の課題は大人にとっても重要である

 

 

 

こんな素敵な講座を聴講して、

その場では日々を内省しても、

帰宅後、制服のまま塾の準備もせず、

ただただだらけている息子を見ると

恐ろしく大きな声で怒っている私。

 

ねえねえ、もう一回、

道徳について考え直しなさいよ、私。

 

ああ、

せっかくの講座がもったいない。

馬の耳に念仏とはこのことだったかな…