こちらのパニ小説は後編になります。前編を読んでからご覧ください。
頭をぶつけたみたいだ。一瞬真っ暗になり、嫁の声で気が付いた。
「大丈夫?頭を打ったみたいだけど・・・」
ああ、大丈夫大丈夫!くるりんぱ!で私がクルリンしちゃったよ。 疲れているんだな、早めに寝よう。 おやすみ。
翌朝、私はシャキッと目が覚めた。 過去最高の金メダル級の清々しい目覚めだ。
そういえば、寝ている間もいつもの中途覚醒はなかった。
・・・あれ?妙な違和感を覚えた。家具の配置が気になる。いつも通りの風景なのだが、なにかが変だ。
昨夜、ソファーからひっくり返って頭を打った影響か? 洗面所に行こうとして一瞬迷ってしまう。こっち側だったっけ?洗面所?
・・・ あ! 鏡の前で歯磨きをしていた時にハッとした! 歯ブラシを持つ手が逆なのだ!
右利きなのに左手で歯磨きをしている。なんの違和感もなくだ。
私って元々左利きだったっけ?
いやいや、そんなはずはない!昨夜、頭を打って記憶を無くしてしまったのだろうか?
「いってきまーす!」 嫁が仕事に出掛けるようだ。私は急いで玄関に向かう。
ねえねえ、私、なにか変わった?
「え? いつもと一緒だけど」 嫁に笑われた。 「今日、美容師さん予約したんでしょ? そのボサボサの髪、なんとかしなさいね!」
そう言うと、嫁は仕事に出掛けた。本当にいつもと一緒なのだろうか?嫁の顔のホクロが左右逆に感じたのも気のせいか?
、、そうだ!嫁の言う通り、今日は美容室の予約をしていたんだ。
気が重いけど、そろそろ身支度をしなきゃ。 朝の服薬だけは忘れてはいけないので、いつものようにおジェイを2粒飲み込んだ。
口に入れた瞬間、吐き出しそうになる。シュワっとエナジードリンクのような味がしたのだ。何故だかやる気も漲ってくる。
昨夜、頭を打った影響で色々と記憶違いがおきているようだ。そうに違いない、きっと私がおかしいのだ。 おジェイも昔からシュワっとしていた。そうだ、そうに違いない。そう言い聞かせ、私はトイレに向かった。
下痢じゃない綺麗なバナナのような便が出た。一瞬、自分の便を見て唖然としてしまう。
そ、そうそう、いつも通りだ。私がずっと下痢だったなんて、記憶違いに決まってる。
あ!もう美容室の予約の時間になる!急がなきゃ!
ピンポーン
急いで身支度をしていたら、インターホンが鳴った。
「美容室〇〇です!ご予約の時間になりましたのでお伺いいたしました!」 いつもの美容師さんだ。
なになに? 自宅に来て髪を切ってくれるの? そんなサービスしてたっけ?
「いやだなぁー、うちはいつも出張じゃないですかー、今日はどんな感じにします?」
、、?? だいぶ頭を打った影響がきてる・・まあ、何にせよ助かる。家で髪を切ってもらえるなんて最高だ。
私は普段は早く帰りたい気持ちから何の注文もしないのだが、今日はここぞとばかりに軽くパーマをかけてしまった。昔のペ・ヨンジュンみたいになって気に入った。
自宅なので不安感も無く髪を切れたのが何よりも嬉しい。 気分が良くなると、腹も空く。ヨン様ヘアーになった私は、上機嫌でお昼を食べに出掛けることにした。
今日もドトールかな。向かう道中で足が止まる。
病気になる前に足繁く通っていた大好きな洋食屋さん。その看板に大きくこう書かれていた。
「事前会計はじめました」
病気になって入りたくても入れなかった洋食屋さん。事前会計ならきっと入れる!ドトールなんてやめだやめ! 私は嬉々として入店した。
夢にまで見た大好きなポークソテーが目の前にある。私は少し涙が出た。
店を出て私は思った、 昨夜頭を打って、世の中が「私寄り」になっていると。いや、最初からこうだったのかもしれないけど。
夜に仕事から帰ってきた嫁は、相変わらずホクロが逆だ。嫁が私のヨン様ヘアーを褒めてくれる。
ねえ?あそこの洋食屋さん、事前会計に変わってたよ。
嫁にそう教えると、「そりゃあそうよ。来年から分煙と事前会計になる法律案が出たじゃない?」
え?そうだったっけ? わけがわからないが、こんな世の中は悪くないな。昨日ソファーからひっくり返って良かった!
それからの数週間は驚きの連続だった。
まずは通っていた心療内科だ。先生がめちゃめちゃ親身になって話を聞いてくれるのだ。時折涙を流して聞いてくれる。診察時間は過去最高の1時間を記録した。
そして苦手な電車でも変化があった。「パニ持ち専用車両」というのが1両できていた。 その車両には専属のドクターが常駐しているらしい。これは心強い。 当然その車両に乗るつもりだが、はて?どうやってパニ持ちだと判別するのだろう?
半信半疑で車両に乗り込んだ瞬間、私の鞄から「ピ!」と音がした。
鞄をよく見たら、いつのまにか「ぱ」と書かれたワッペンが貼られてある。しかも「ぱ」という文字がピカピカ点滅している。先ほどの音から推測するに、これはきっと乗車オーケーの印だろう。
さすがにパニック障害を患っている人は少ないらしく、車内はガラガラで快適だ。白衣を着た人が斜め向かいに座っている。この人が専属ドクターだろう。
白衣の人は私を見ると「大丈夫、安心してください」的な笑みを浮かべた。ありがたい。なんの不安も無く目的地に着けた。
その後で先週と同様の仕事の打ち合わせがあった。前回の狭い会議室と違い、広いけど緊張感のない部屋に変わっていた。
担当者も変わっていて、パプアニューギニア人で日本に帰化したらしい。
このパプアニューギニア出身の担当者が日本語ペラペラな上、話がとても面白い。 病気も忘れ、あっという間に打ち合わせは終了した。
やはり、何もかもが「私寄り」になっている。
あ、そうだ!今日も嫁に牛乳を頼まれてたっけ! 帰り道、私はいつものスーパーに立ち寄った。
やはりだ。陳列酔いをしなくなっている。むしろ陳列棚の色彩がアートのように目に映った。
これは購買欲を掻き立てるわけだ、今まで気付かなかったよ。ずっと見ていたいが、嫁が待っているので牛乳を買って早く帰ろう。
レジに並ぶと、偶然にも先日いた婆さんがお会計をしている。婆さん、前回は小銭を探してめちゃくちゃお会計が長かったっけ?
薄々は予感していたが、やはり婆さんも「私寄り」になっていた。
婆さんは万札を差し出すと、キリっとした顔で
「釣りはいらないよ」
最高かよ、婆さん!
この日、私はサバイバル要素ゼロで帰宅することができた。
家に帰ると、嫁が心配して聞いてきた。「今日は大丈夫だった?」
大丈夫だった! 自信満々で答えた。
何年ぶりだろうか?こんな返答ができたのは。 私は上機嫌でソファーに腰掛ける。
テレビには大好きなお笑いトリオが映っている。 お笑いトリオの1人が、被っていた帽子を床に叩きつけて再度被る。
「くるりんぱ!」
やるとわかっていても吹き出してしまう。私はまたも大笑いして仰け反ると、ソファーから後ろにひっくり返ってしまった。
ゴツン。
筆を置き、大きく伸びをする。
原稿を書き終えた安堵の伸びだ。私が原稿を書くなんて、病気になる前は考えられただろうか?
断言できる。出来ていないはずだ。 病気になり、不自由な事がたくさん増えた。だけど「感性」だけは自由なままだと気付いた。むしろ病気になって自由度が増したとさえ思っている。
「感性」に病気は関係ないのだ。
終