“驚き”は、純粋な感情とは違う。
例えば、誕生日のサプライズ・パーティーなど、どれだけ秘密裏に運んでも、計画が洩れないだけで、自分の誕生日を完全に忘れていない限り、想定の範囲内だと思われる。又、知り合いの訃報を聞いた時、予期しえない状況での、突然の事だったとしても、人の死そのものは、悲しいかな、免れない運命で有り、調和されているものだ。
それは、喜びの感情に、“幸福感”が相乗し、増幅された情態だったり、悲しみの感情に、“喪失感”が相乗し、増幅された情態で、事後の判断に過ぎない。
“充実感”やら“失望感”やら、付加される材料は色々あるけど、こういうものが備わらないと、感動として、何も人に伝わらないのかも知れない。どちらかと言えば、自分は、それが足りてないタイプで、、、、
「そうだと思った」
腹、立ちますね。想定していた内の、低い方の可能性を引き上げて、こう宣巻く、、、、うん、やっぱ、腹立つ・・・。
感情を持ちえないとされるコンピュータが、自らの予想を外して、見せる反応としても、こんな風じゃないかと、、、、
「こういう事でしたか。思い返せば、その兆候は確かに有りましたね。例えば---------」
まだ可愛げが有る。
演算処理機の存在よりは愛着を持たれたいし、せめて、こう言いたい、、、、
「ちくしょう」