子供の頃、赤い枠組みの中の、ガラスの向こう側に在る、あのボタン、、、、押したい衝動に駆られた事は無いですか?
僕は、何度も有りました。

今、あれを見掛けても、何とも思いません。大人になった、というより、興味が失せたんでしょうね。子供の時は好奇心で、どうなるのかを知りたがったものでしたが(想像は出来るが、実際、目の当りにしてみたかった)、、、、うん、当時は、考えるより、ずっと嫌な思いをする人が居て、迷惑がられるところまで、ちゃんと想定できていなかったのでしょう。

多くの子供が罪を犯さず、どうにか自制できたのは、恐らく、子供同士の監視が働いていたからだと思います。皆が皆、そうしたがってた訳じゃ有りませんし、、、、そう考えると、僕は、想像力の欠如していた、不安定な、少数の部類だったのかも知れません。

唐突ですが、人を判断するのに、何でも、“S”と“M”とで区分したがる人がいますね。僕は、常日頃、SとMとは、決して相対しているものじゃない、との自論を持っていました(ただ、これは、ジル・ドゥルーズ著【サドとマゾッホ】に依って、ずっと前に提唱されていたらしいので、詳しくはそちらで、、、、余っ程、面白く、的確なので・・・)。その真偽は別にして、、、、“S”人口よりも、“M”人口の方が圧倒的に多いとすれば(これも自論に過ぎませんが、、、、“S”と“M”の、両方共に兼ね備える場合も承知した上で)、現在、“S”を自覚している人は、子供の頃、非常ベルを押したがっていたりしませんでした?

では、現在、“M”を自覚している人、、、、子供の頃、どのような兆候が見られたものでしょう? 
<M=受身>と、一般に認められていますが、これが確かなら、その分、逆に、要求度が高い訳です、、、、「これして欲しい、あれして欲しい」という・・・。

案外、同じように、非常ベルを押したがっていたのかも知れません。当然、理由は違って、、、、騒ぎを引き起こし、周囲の反応を楽しむ為では無く、唯、自分への注目を集める為でしょう。

人の性質を分けるのには、行動自体は(然程)意味を持たず、その動機付けが重要なようです。

お互い、気が合うように思っていても、実は・・・?