預金口座とかの暗証番号は、誕生日など、類推し易い数字を使用しないよう、指導されるものです。
勿論、それは正しく、そうすべきなのですが、どんな事にも、例外は有るもので、、、、
とある会社社長は、自分が一代で築き上げた家業を長男に譲り渡したい、そう考えていたのですが、この息子、絵に描いたような道楽者で、父親の下、働かされていましたが、一切、仕事も覚えず、家族の財産のみならず、会社のそれに迄、手を付ける始末・・・。
徹底して、甘やかされて育てられた所為か、土台が無い故、今更、厳しく接しようとも、崩れ落ちてしまいそうで、皆、気が引けていました。身内だけなら未だしも、他人への危害に及ぶような事態に至れば、取り返しが付きません。親を始め、誰一人、直接には注意を与えられないのでした。
社長は、一計を案じました。外部的に揺り動かすのが適わないなら、内部的に衝き起してみようと・・・。
逆上されるのを懼れて、金品等をくすねられても、半ば見て見ぬ振りでした。知能は高く、目端も利くので、家の金庫も、会社の口座も、ID・パスワード・暗証番号の類は、何時の間にか嗅ぎ付けられてしまうのです。そこで、息子の誕生日、又、これに伴う識別の符号に、全てを統一したのです。どうせ知られてしまうのであれば、同じ事です。
道楽息子の心に、どんな核融合を引き起こしたのか、、、、以来、家の金品が持ち出されたり、会社の資産が使い込まれたりする事は、ぴったり無くなりました。
これは、実話として聞いたのですが、、、、彼は、改心したのか、それとも、危険を察知して、ほとぼりが冷めるのを、唯、待っているに過ぎないのか、実際のところは判りません。
誰しもが、他人を疑ったり、他人から疑われたりします。「他人を疑うくらいなら、騙された方が良い」との方針を打ち出しているのを、時々、耳にしたりしますね。“綺麗事に過ぎない”と否定したりはしませんが、、、、でも、不可能です。疑わないのなら、どの時点で、騙された事に気付けるのでしょう。或いは、騙された事に気付きすらしなくても構わないのでしょうか。それなら、「他人を疑うくらいなら、騙された方が良い」との方針を打ち出す必要性は有りませんよね。
屁理屈を並べ立てて、申し訳ありません。しかし、「他人を疑うくらいなら、騙された方が良い」との台詞は、他人を見下しています。自分が他人を疑わなくても、自分が他人から疑われれば、平衡は簡単に崩れます。無条件の信用も、徹底した放置も、結局は同じ、、、、日々の、心の安穏を求めるのならば、飽く迄も公正に、疑える程に、相手を見て(監視して、言い方を更に換えれば、関心を寄せて)おかなければならないのでしょう。
ま、確かに、不愉快にもなりますけどね。