「生き物を殺すことって悪いことなの?」


我が子に突然こんな質問をされたとしたら、どう返答すればいいのだろう。


「生き物を殺したことがありますか?」


って聞かれたら、無いとは言えないですよね。意図せずとも細菌サイズの生物を、人間は寝返りをうっただけで殺してしまうだろうし。



「世の中って犠牲が必要なもの?」



と質問されたら「必要です」って自分は答えます。

もちろん「でも…」って、その後は長い話になるんやろうけど。


しかし、この「でも...」が肝心になってくる。


当然のことながら、人は動物や植物を食べるために、生き物を殺さなければなりません。殺さないことには生きていけません。


なぜなら、食べへんかったら餓死するから。


人間に限らず、他の動物もそうです。


植物だって光合成するけど、自分の周りの植物を枯らしてでも、栄養分をとって自らが生きようとします。


要するに、世の中の成り立ちが他の生き物の「死」を必要としてる仕組みやねんからしゃあない。


これを「弱肉強食」っていいますよね。


どんな強者であれ、やがては衰え、弱者となり死にます。


生きている限り、この呪われた仕組みからは逃れることができません。


あたり前の話ですが、自然の摂理ってやつです。


ニワトリの首を切り取って調理する場面を見て、「かわいそう~!」って非難する人がいます。


もちろんかわいそうです。


でもその人も、意図せずとも間接的やけどスーパーでそんな鶏肉とか買って食べてます。


なんで生きていくためには、こんな「自然の摂理」に強制的に参加せなアカンねやろうか?


だって腹がへるもん。


それがルールやねんもん。


なんで「自然の摂理」ってこんなにむごたらしいんやろうか?


だって、誰もが死を恐れますよね。誰もが痛い思いをしたくないやろうし、それは他の動物だって一緒やんね~。


「弱肉強食」がむごたらしい理由は、みんな死が恐ろしいことを知ってるから。
いたみを伴うことだと知っているから。


じゃあもし、死が快楽であったとしたら?


そんなわけあらへん。
死んだことないから分からへんけど、どんな生物でも生きようと必死やんか。


じゃあなんでそこまでしてまで、生きることに執着するんやろうか?


なんで生物は盲目的に生きることに執着するの?


その意義は?
理由は?


だいたい世の中の成り立ちは、なんでこんな残酷なん?


もし世界を創った創造者がいるとしたら、なんでこんな残酷な「自然の摂理」を導入したんやろか?


よくSF小説とか映画で、宇宙人が地球を試験場として創造して、実験をしてるからって話があるけど、まんざらお笑いごとではないと思う。


それくらい見事に緻密にむごたらしく出来てるんやもん


それとも、地球は罪を犯した者がそれを償うための流刑場やったりして。


まぁそれはSFの話として。



のうのうとあまり意識せず、普段を生きてる自分やけど、改めて考えてみると「自然の摂理」ってのは充分に残酷なものやと思いました。



でもさらに残酷なものと決定づけた出来事が、地球史史上かつてなかったこととして起こってしまう。


それはある日、猿が手を使って道具を使うことを覚えたかのように…


ある類人猿が仲間を弔って墓を作ってしまったことから悲劇が始まった。


類人猿が墓を作って仲間を弔っていたという事実が、現代の考古学者がその墓を発掘したことによって証明された。
そういうことがTVでやってた。


ここから、以下に一つの物語が始まるのでした。


これが何を意味するのか?


人間が悲しみを覚えてしまった。

人間が愛を覚えてしまった。

人間に道徳の観念が生まれてしまったということ。

そのことが歴史上証明された最初の日だから。



弱肉強食の世界に芽生えてしまった「涙」の物語。



ここから、人間は道徳の観念を幅広く進歩させてゆきます。他へのいたわりの心が広まり、慈悲の気持ちが広まり、しいては宗教が創造されました。


人々はあらゆる道徳の観念を社会のすみずみにまで行き渡らせました。人々は他に向ける「涙」を覚え、それを尊いものとしました。


人々はこの観念を広めるため、あらゆる努力をしてきました。


でも、どう努力しても何も変わらないことがあります。


それは「自然の摂理」という絶対的な仕組みであり、他のものを殺して食べなければ生きていけない、という呪われた仕組みのことです。



人々はしだいに矛盾を感じはじめます。道徳や涙、愛を学び体験すればするほど、自分が実は悲しい存在なのではないか?と苦悩します。


家畜に対して、振り上げた斧を使用するためには、「涙」という感情が邪魔になってきました。


一方では「死」を悲しみ涙しながらも、なぜ俺はこの斧を振り上げているのだろうか。


男は空腹の腹に手をあて、右手に握る斧を見つめ続けました。


男は斧の刃の部分に自分の指をそっと当てました。


赤くあたたかい血がとめどもなく流れ、地面にポタポタと落ちてゆきます。


しかし、やがて流れ落ちてゆく血はゆっくりとなり、傷口にわずかな痛みだけが残るのでした。



でも、これはただの幻想の物語



人は究極的には、肉親や友人、恋人など、自分と関わりのあるような存在くらいにしか悲しみは感じないようにできているのかもしれません。


極論をすれば、愛する人を救うためには、自分とは関係のない他の100人が殺されようが関係がなかったりする


動物愛護団体に非難されようが、医療の発展のため、実験動物のモルモットが犠牲になる中、ある家ではハムスターが可愛がられ、外では服を着せられた犬が走り回っている。


つまり、人の観念に絶対的な平等性などは存在しない。


つまりは自分のため、エゴでしかないのかもしれない。


分かりきったことかもしれないけど・・・


そういった相対的な観念の中で、さらに人はゆらゆらと揺さぶられ、道徳や平等、自由、正義などの理想に悩まされる。


しかし、エゴが人にとって最重要だとすれば、人はただ孤立に向かうべき悲しい存在になるのではないだろうか。


人の歴史をひも解けば、戦争など血にまみれている。


人は弱肉強食の下層の貧窮から逃れるため、自身が強者となるため、エゴを貫くため、他人を疑い、謀り、殺し、最後には地上でたった一人になるまで殺しあうと・・・


でも、そこまで人は愚かではないよね


孤立を好みながらも、共生を望む矛盾した存在だから。


人は悲しみを感じ、愛を求める生き物だから。


いたみを共感できる存在なのだから。


しかしその愛でさえ・・・


この温かく頬をつたうものでさえ・・・


ただのエゴからくる産物であったとするならば・・・


盲目的に、種をただ存続させようとする自然の摂理の中の、システムの中の、呪縛された感情でしかないのだとしたら・・・


愛や悲しみとは進化の終末期を迎えた人類が、互いを滅ぼしあわせないため、自滅させないため、種の存続をさせる延命治療として、しかたがなく投与された抗生物質にすぎないのだとしたら・・・


核兵器はすでに開発されてしまっている





エゴが肥大化した社会の中で、それをエゴだと自覚しながらも、矛盾したような理想を抱え悩み続けなければならないのが、知恵の実を食べてしまった人の業。


そしてその葛藤こそ、葛藤の中で戦うこと、それこそが人のプライド


休息は必要でも、完全に思考を凍結させてはいけない


答えが出なくても、考え悩み続けるのが人の義務


矛盾する生き物、それが人


たとえ答えのでない暗闇の中であったとしても


光へ必死にもがき続ける人の姿とは、ただ美しい




$イサのブログ-劉禅

はい、横山光輝の三国志の最後のシーンをちょっとアレンジしたものですね。



趙雲「殿、生まれてくる時代を間違えちゃったかもねw」

劉禅「やっぱ君もそう思う?アハハw何万もの敵兵士の中、余を抱えて一騎駆けしてくれて!

劉禅 「趙雲! アリガトョッ(≧ω≦)σ)ノ∀`)プニプニ」

趙雲「ですよねーw」

劉禅「だよねーw」

劉禅「でも現代みたいな世の中では、余は意外と大物になってたかもしれんぜよ?」

趙雲「どうだかねーw」

劉禅「((´∀`))ケラケラ」