不安は対処すべきではない。
人生は常に失う可能性に満ちている。
そこに命の醍醐味がある。
恐怖は不快ではない。安全は愉快ではない。
不安とは君自身が君を試す時の感情だ。
栄光を前に対価を差し出さなきゃならない時、ちっぽけな細胞の寄せ集め1人。人生なんてくれてやれ。
本作登場キャラ、財津選手の言葉です。
パニック障害の持病を持つ私からすれば、「不安は対処すべきではない。」という言葉は、まるで逆転の発想の言葉です。
私はパニックが起きないように、いつも何か不安の対処方法を探しています。
しかしこれではまるで、不安の奴隷です。
不安の材料なんて、探せばどこにでもあるからです。
そんな中、この言葉は不安の奴隷から解放されるような気持ちにさせられます。
なるほど、前回のブログにも書きましたが、私は「今」を楽しめていない。
その原因の一端は、いつも「不安」に捉われているこの心にあるのかもしれません。
つまり
いつも先の「不安」に捉われていて、「今」を楽しむことができていない。
今を楽しむための「姿勢」がおろそかになっている。
そして
「人生は常に失う可能性に満ちている。
そこに命の醍醐味がある。」
という言葉
つまり「不安」は人間にとって必要なものだと?
たしかに不安が存在するのは、人類が生きていく上で、そのほうが生存戦略として有効だからという見方が一般的だ。
不安がなければ、危険を回避できないわけだから、死に直結することになりうる。
しかし問題なのは、その不安のバランスであり、私は不安になりやすすぎる。
これが生きづらさにつながっている。
でも俯瞰して見た場合、人生は常に失う可能性に満ちている。
つまり人生は不安に満ちている。
それを恐れながら迎えるのと、覚悟を決めながら迎えるのとでは、人生の楽しみ方が全然違ってくるのかもしれない。
そして、失う可能性に満ちているこの世界だからこそ、生に価値があり、そこに醍醐味があるのかもしれない。
この一言にはそういう思いが詰められているのだろうか?
財津選手(魚豊先生)、若くして人生を達観しているよなあ
「恐怖は不快ではない。安全は愉快ではない。
不安とは君自身が君を試す時の感情だ。
栄光を前に対価を差し出さなきゃならない時、ちっぽけな細胞の寄せ集め1人。人生なんてくれてやれ。」
そりゃあこういう言葉が出てくるわけだ。
「恐怖は不快ではない。安全は愉快ではない。」
逆に言うと不安や恐怖がなければ、生の価値が薄れてしまうわけだ。
だからこその「恐怖は不快ではない。安全は愉快ではない。」この言葉。
そして「不安とは君自身が君を試す時の感情だ。」という言葉。
つまり「不安」とは自身が人生の充足感を高めるチャンスでもある。
と言いたいのかもしれない。
だからこその
「栄光を前に対価を差し出さなきゃならない時、ちっぽけな細胞の寄せ集め1人。人生なんてくれてやれ。」
というわけか。
カッケーわ!
まさに100m走という人生を凝縮させた10秒間に、己を賭けた人の言葉。
私はいつも「不安」を恐れおののきながら迎えることによって
人生の充足感を得るための「今」という機会(時間)を
恐れの感情で塗り潰していた
貴重な時間をネガティブに費やしていたというわけなのか?
人は人生100年といわれるくらい長寿の生き物だ。
しかし、「実際に生きている時間」というのは、そう多くはないのかもしれない。
本当の意味で人生が輝ける時間というのは、人生の中のほんのひと時なのかもしれない。
あとは凡庸で退屈で、ただ生きているというだけの時間。
しかし今回のテーマのシリーズで最初にあげさせてもらった、映画「パーフェクトデイズ」が示した「幸福の時間」とは、まさにその「凡庸な時間」にこそ宿っていたのだ。
いっぽう、「ひゃくえむ。」では、男たちが凡庸な生活を犠牲にし捧げて、夢に打ち込めば打ち込むほど、その「幸福感」という対価が強くなるという性質があるように思える。
この両者の矛盾とも思えるような性質を両立させることはできないのだろうか?
この疑問をシリーズ最終回のテーマとして、次回考えてみようかな。