なんか最近、遠くのものが見えにくくなってきてたからメガネの新しいのを買いました。

 

ちょっとふちが広めのやつ。

 

 

めっちゃ見えるようになった。見えるって当たり前なことだけど嬉しいですよね。

 

 

PCばっかみてるから、調子のってブルーライトカットも入れました。

 

 

 

 

さて、最近とくに思うのですが、幸せって人によって違うものだよなーと。

 

 

最近、いろんなことに不安を感じることが多くても、喜びを感じることって少なくなってきたように思うんですよね。

 

 

幼年期の頃はなんでも楽しかったのにね。

 

 

僕がよく読んでいたマンガに「自殺島」ってマンガがありました。

 

 

このマンガの10巻で作者は、現代人はこの「喜びを感じる能力」が不足している人が多いんじゃないかと説きます。

 

 

作者は具体的に大きな理由(ひどいいじめや生活苦、健康問題)がなくても、自殺者が増えている現代に危機感をもっているようです。

 

 

その原因の一つに「喜びを感じる能力」が現代人から無くなってきつつあることを指摘しています。

 

 

なるべく勝ち

なるべく得て

なるべく上に行く

 

そのように私たちは教育されてきた。

 

作者はそれを否定するわけではないのだが、競う能力の向上に比べ、「感じる能力」の向上にあまりに無関心すぎると指摘します。

 

 

たしかに僕にもそういったことに、ひどく思い当たるフシがある。

 

 

当たり前なことだが、おいしいものを食べることの喜び。

 

 

クソ寒い日に温かい飲み物で幸せを感じる瞬間。

 

 

お天気の日に、お陽さまにあたって幸せだなあと感じる心。

 

 

花や景色など、綺麗なものを眺めて感動する気持ち。

 

 

何かを作る喜び。

 

 

人と話をする喜び。

 

 

当たり前なことなんだけど、そういう当たり前の喜びの瞬間を、そんなに価値のあるものだと思ってはいないのではなかろうか?

 

 

たしかに事業に成功したり、競い勝ち続けることの喜びも幸せだ。

 

 

しかし、だからといって当たり前な小さな喜びを集めて、幸せだって感じる瞬間を見逃してはいないだろうか。

 

 

最近、僕の中でそういった小さな喜びに対して、幸せを感じる力が鈍化しているように感じることがある。

 

 

特に鬱っぽくなったときなんてそうだね。

 

 

何に対しても無関心・無気力、ただ虚しい時間が過ぎゆくだけ。

 

 

マイナス思考。

 

 

 

 

「自殺島」の主人公セイは言う。

 

「人間以外の生き物は、ただ生きることのみで幸せを感じることができる」

「でも、人もそうなんだって思う。僕は今幸せだ」

 

「明日、大変なことが・・・この先、つらいことがあるかもしれない・・・

だけど、今は幸せだ」

 

 

そうなんだよね、今、幸せだってことを感じてひたっていることが重要なのに・・・

 

どうしても明日のことを考えて不安になっちゃうんだ。

 

だから幸せを感じ、実感しているヒマがない。

 

いや、もっとハッキリ言えば、幸せを感じることを途中でキャンセルしてしまっているんだ。

 

これはもう救いようがないくらいダメな癖だ。

 

悪癖

 

 

たとえ僕は宝くじで10億円当たったとしても、それは嬉しいんだろうけど、心のどこかでまだ不安を探そうとしているだろう。

 

そういう自分が容易に想像できる

 

もともとはこんな考え方じゃなかったはずなのに

 

最初は、不安や不幸にひたって、そこに悦を求めていた部分があった。

 

ところが、それがだんだん癖になりだして、エスカレートしていき、自分の不幸探しの名人になってしまった。

 

 

今ではその不安が新たな不安を呼び、不幸を感じる螺旋に呑み込まれて抜け出せなくなってしまうことが多い。

 

不幸ぶっていただけなのが、本当の不幸になってしまったw

 

 

「自殺島」のセイは、島で文明社会から外れ、自給自足の生活で夢中になっているうちに、「ただ生きること」に秘められた喜びを実感することになったんだと思う。

 

 

この「喜びを感じるスキル」はとても重要なものなんだと作者は述べる。

 

そして、親や教育者たちはその重要なスキルにもっと目を向けてほしいと述べている。

 

本来、人は喜びを得る能力をもっているのだからと・・・

 

 

 

 

 

ところで

 

皆さんはマズローの欲求段階というものをご存じだろうか。

  • 自己実現の欲求 (Self-actualization)
  • 承認(尊重)の欲求 (Esteem)
  • 社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
  • 安全の欲求 (Safety needs)
  • 生理的欲求 (Physiological needs)
 
というピラミッド状の欲求段階であり、一番下層の生理的欲求から順に満たされていかないと、上の欲求まで届かないというものだったと思う。また、下層の欲求が満たされると、自然に1つ上の欲求が起きるようになってゆくというもの。

 

今、自分がどこの欲求段階にいるか、確認してみるのも面白いと思う。

                       ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96(ウィキペディア)

 

これによると、マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、自己超越 (Self-transcendence) の段階である。 自己超越者といって、この段階にいる者は人口の2%程度だということである。仙人みたいなものなのかな?w

 

 

ここでまた話は変わるが、昔、「脳内革命」という本がベストセラーになった。

 

人の脳には「脳内モルヒネ」と呼ばれる麻薬物質のようなものが存在し、その物質は特定の時にしか放出されない、超幸せを感じる物質である、ということだったと思う、たぶんw

 

特定の時とは、何か人類的偉業を成し遂げたときとか、超慈愛の精神で満たされたときなどに放出されるらしい。

うろおぼえだが・・・

 

たしか、作者はその中で、ナイチンゲールの話を持ち出していた。

 

 

ナイチンゲールとはクリミア戦争時代にその負傷兵の看護にあたった、看護師の元祖のような存在で有名ですよね。

 

 

そのナイチンゲールの姿は、負傷兵からは女神のように見えたであろうほど、献身に看護にあたり、ボロボロに自分の身を挺して活動にあたる姿を不憫に思われさえしたのではという意見もある。

 

 

しかし、当の本人はその看護の中で、超慈愛の精神に突き動かされ、実は「脳内モルヒネ」がドバドバ状態で、いかなる何者も想像できないほどの圧倒的幸福感を感じていたのではないか、と作者は述べている。

 

 

これが本当なら、彼女こそマズローの欲求段階でいう超越者であり、彼女しか分からないような悟りの境地に至る、超幸福を体現した人ではないのだろうか。

 

 

もちろん誰もがそうなれるわけがない。

 

 

しかし、ふだんのささいな生活の中にある、幸せに目をやることくらいはできるかもしれない。

 

 

僕が敬愛するドストエフスキーも

 

1「人間が不幸なのは、ただ自分の幸福なことを知らないからです。それだけのこと、断じてそれだけです、断じて!それを自覚した者は、すぐ幸福になる、一瞬の間に。」
(米川正夫訳。『悪霊』のキリーロフの言葉。第2編第1章の5。新潮文庫では、上巻のp371。)

2「人間というものは、不幸のほうだけを並べたてて、幸福のほうは数えようとしないものなんだ。ちゃんと数えてみさえすれば、だれにだって幸福が授かっていることが、すぐわかるはずなのにね。」
(『地下室の手記』より。)


 

3「人間の情け深さと人間の相互愛を確信することよりも、大きな幸福はない。これは、信仰だ。まったく一生をかけての信仰だ!この信仰よりも大きな幸福があろうか!」
(『作家の日記』より。)


 

4「幸福は快適な生活の中にはない。幸福は苦痛によってあがなわれる。人間は幸福のために生まれるのではない。人間は自分の幸福をあがない取るのだ。しかも常に苦痛によって。」
(『罪と罰』の創作ノートより。)

「あらゆる偉大な幸福はいくらかの苦悩を内包している。というのは、それがわれわれのこころに、より高い意識を呼び起こすからである。」
(『作家の日記』より。)


 

5「幸福幸福のなかにあるのではなく、ただその獲得のなかにのみある。」
(『作家の日記』より。)


 

6「自己犠牲よりも大きな幸福はどこにもない。」
(『悪霊』より。)


 

幸福は徳行の中にこそ含まれているものである。」
(『スチェパンチコヴォ村とその住人』より。)


 

7「人間には幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸がつねに必要である。」
(『悪霊』より。)


 

8「いまのわたしにはあの人から受けるものなら、苦しみさえ幸福です。」
(『虐げられた人びと』のナターシャの言葉。)


 

9「不幸なのは心のよこしまな人間ばかりです。私には、幸福とはどうも――人生に対する明るい見方と曇(くも)りのない心の中にあるものであって、外面的なものにあるのではないように思われます。」
(書簡より。)


 

10「よしんば(=仮に)まちがったものにせよ、美の理想をもつ者は、幸福である!」
(『未成年』より。第1部第5章の3内。新潮世界文学のp111。)


 

11「キリストさまがおっしゃっておられるのは、そんなことじゃない。『行きて、汝(なんじ)の富をわかちあたえよ、そして万人の僕(しもべ)となれ』こうおしゃっておられる。それでこそ今までよりも百万倍も豊かになるのだよ。だって人間というものは、食物や、高価な衣装や、誇りや、羨望(せんぼう)で幸福になるのではない、限りなくひろがる愛によって幸福になるからだよ。そうなれば十万や百万ぽっちの少しばかりの財産ではなく、世界中を自分のものにすることになるのだ!」
(『未成年』より。第3部第3章の2内。新潮世界文学のp464~p465。)


 

12「わたしにはいつも、最大の幸福とは、少なくともなぜ不幸なのかを知るということだと思われた。」
(『作家の日記』より。)
※、気になる言葉です。


 

13「それにしても、喜びと幸福は、なんと人間を美しくするものか!なんと心は愛にわき立つものか!」
(『白夜』より。)1
14「幸福な人間はつねに善良である。」
(『未成年』より。)


 

15「家庭の幸福以上に大事なものはこの世の中にはなにひとつない。」

 

 

 

 

 

15番まであるけど、今回、僕が注目したい言葉は1番の言葉なのです。

 

 

僕も遅まきながら、喜びを感じるスキルの再習得に目を向け、得ていきたいと思う

 

 

幸せなんて、しょせん主観的なものであって、外から不幸に思われようが、それは的外れなんだから

 

 

感じる心って、もともと人に備わっているものなんだろうけど、生きていくうちに変に矯正されたり、改変されたりするし、でも逆に良い方向へ矯正・改変できるものなのかもしれないなって。なんかまるでマインドコントロールみたいだけど、そういう部分もあるのかもなって。それならば、良い方向へ修練をすることもできるはず。

 

 

 

しかし、もう一つ言えるのは、「喜びを感じる能力」は、そうそう簡単に獲得できるものではない!

 

 

だって、いくら考え方・感じ方次第で幸福になれると言っても、簡単にそう変われるものならば、世界中に3億人いると言われるうつ病患者は明日にだって激減してもいいはずだし、うつ病の薬なんていらないんだろうから!

 

 

 

つまり、だからといって簡単なことじゃない!

 

 

どうせ同じ生きていくのなら、不幸を感じながら生きてくよりも、幸福を少しでも感じていける思考で生きていけるほうが良いし、そのほうがお得なんだよな