みなさんはどんなことに夢中になりますか?
ここでいう夢中になるっていうのは、まるで我を忘れて、時間を忘れて、何かに夢中になることとします。
子どもの頃って、そういうこと多かったんですよね。
友だちと遊んでいたら、夢中になって時間が経っていて、もう帰らなくちゃいけない時間になってた。
まだまだ遊び足りないのに・・・
この「夢中」の時間ってさ、それを味わっているときは、ただただ夢中で、恐れとかないんだよね。
色んなマイナス的な感情を忘れさせてくれている瞬間なんだよね。
子どもの頃にはそういう時間がたくさんあった。
生きることが楽しかった。ただ単純に・・・
ところがどうだい?
大人になっていくにしたがって、少なくとも僕の場合は「夢中」を感じる時間は、あきらかに少なくなった。
幼い時は、毎日のように何かに夢中になっていたのに、大人になるにしたがって何かが夢中を遮りだす。
その遮るものってなんだろう。
社会なのかな。
社会を認識しだして、その巨大さに気付くごとにある種の「恐れ」のようなものが自分の中に発現しだして、それが「夢中」でいられることを遮りだすんだ。
それは決して悪いことというわけじゃない。
だって、子どもの時のままに、わがままに「夢中」に浸ってばかりでいると、社会の中で協調できなくなって孤独を味わうことになると思うから。
人に、他人に合わせることに注力していかないと、社会の中でつまはじきに合うことが分かるし、社会との関わりを意識していないと自分1人だけ、どんどん沖に流されるんだ。
気付かないうちに戻ってこれなくなるかもしれない。
みんなとの繋がりが大事なんだ。
だから興味がなくても、ある程度の流行りごとはおさえておかなきゃならないし、孤独へ流されすぎないようにしなきゃだ。
でも僕の場合はそれが過ぎた。
やりすぎだ。
孤独を恐れ、みんなとの社会との繋がりばかりに注力していたから、社会から隔絶されることを極端に「恐れ」、自分の中の「夢中」に目がいかなくなり、手離していくことになり、ついには自分は何に夢中になっていたのか、何が楽しいのかすら分からなくなる。
いわゆる自己(アイデンティティー)を見失うことに繋がってしまったんじゃないかと思う。
でもだからといって、「夢中」ばかりを追いかけていたら、それはそれで気づいたら孤独な自分に気づき、だめになっていたかもしれない。
いわゆる「社会向けの自分」と「自我のままにいく自分」のバランスのとり方が上手くなかったんじゃないかなあ。
けっきょく、どっちにフレすぎてもしんどくなってくるんだと思う。
でも多くの人は僕みたいな道を辿ってきたんじゃないだろうか。
発達過程において、幼いころに自分本位に何かに興味をもつ時期があるのは当然必要なことであって、多かれ少なかれ、みんな社会を知るごとにその時期を手離していく。
一部の天才たちや、エジソンみたいな発明家や研究家みたいな人くらいじゃないだろうか、わがままに自分のやりたいことに「夢中」になり続けられたのは・・・
でも彼らは、それが天才であるから許されることであって、けっきょくそのことが世の中に大きく貢献することになったんだから、そうでなくちゃならなかったんだと思う。
もちろん、そういう人たちは「夢中」を重視するあまり、犠牲にしてきたことも多かったんだとも思う。
ただ、やっぱりうらやましい。
純粋に我や時間を忘れるくらいに何かに「夢中」になり続けられるなんて・・・
子どものころ、遊びに夢中になれたことを除いては
大人になって僕が時間や恐れさえ忘れて、何かに「夢中」になったことってなんだろう。
たとえば推理小説なんかそうだよね。
謎が謎をよび、時間を忘れるくらいにどっぷりはまって「夢中」になってしまった結果、徹夜して朝になってしまっていたとか。良くある話だよね。
スポーツなんかもそうだね。
実際にスポーツに夢中になったり、観戦に夢中になっていたりとかさ。
映画やアニメや漫画・ゲームなんかもそうだ。
質の高い文学なんか、どっぷりはまってしまって夢中になったりする。
音楽なんかもそうだな。
ビートルズなんかのトータルアルバムにはまったときもそうだった。
トータルアルバムといえば「ペットサウンズ」なんかも。
中村一義なんかにはまっていた時期もあった。
自分で楽曲を作ることに夢中になっていたときも(それが質の良いものかはさておき(笑))
恋愛とかもそうなのかな、最近はそんな「夢中」になるほどのことはないけど(笑)
全く自分とは関係がない他人が作ったシナリオ・ストーリーや音楽なのに、それに「夢中」になれるってすごいと思いませんか?
全然知らない作者が作った、全くのフィクションのストーリーなのに、なんでそれに、ここまで心が奪われたりするんだろう。
その瞬間は作者や、同じようにその作品に共感しあう観客たちと、心の奥深いところで繋がったような気がしますし、その瞬間は決して孤独ではない。とても特別な気持ち。
良く分からないけど、そういうものを作りだした人たちに憧れます。
自分や時間や恐れさえ忘れて、何かにはまれる瞬間ってとても素敵なことだと思います。
そのときの人って、きっと眼がいきいきしているだろうし、きっと幸せと呼ばれる時なんだと思います。
そういうものをもっと大切にしていきたいな。
でもそういうものって、有限だし、決して数多くあるわけではないですよね。
だからこそ大切にしたい。
年を重ねるごとに、そういう機会に巡り合うことって少なくなってくるものなのかもしれないけど。
でもおじいちゃんになっても、「夢中」を大切にしたい。
でも「夢中」を探し見つけるのって、限界があるように思うし、自分で作り出せていけたらもっと素敵なんだろうけどね。
最近になって思うのは、ある程度余裕をもって生きていなければならないんじゃないかと思うこと。
大事なのは、世間や社会に翻弄されて、心を生活に削られ、余裕をもてなくなってる自分に警鐘を鳴らし、「夢中」を味わえる余裕をもった心でいられること。
じゃないとまず、何が楽しくて、何が良いのかすら分からなくなっちゃう。
生きることに翻弄されたまま、そのことに気づかずにいたずらに時間を費やし、いつの間にか生涯を閉じている
そんな人生やだもんな