分かりにくいことが重宝がられることがある。

たとえば、絵や文学、音楽なんかの芸術の類だ。



あやふやな感じが、空気が好まれたりすることがある。

それは認めよう。



なぜなら、世の中にある真理とは、あやふやな場合が多く、グレイゾーンの中にあることがほとんどだからだ。

数学のように明確で、絶対と言えるようなことはむしろ少ない。



しかし、真理を探究する芸術家は、せめて分かりやすい形で世間に発表する努力をする義務があるのだと思う。

なぜならその仕事は、数学や科学と同じように、別の観点からであっても、同じ真理を追い求めている作業に他ならないからだ。



宗教だってそうだ。

真理をかざすのなら、最も分かりやすい形で大衆に示す必要があるのではないか。

それが雲のような真理を、網をただ途方もなく振り回すことで掴もうとする者、掴める者の役目ではないだろうか。

怠ってはいけないのだと思う。



人間関係にしてもそうかもしれない。

その人の分からない部分、ミステリアスな部分があるから、その人に惹かれたりもする。



しかしそれは所詮、偶像でしかないのだ。

みんなが分からないものを、分かったような気になって自己満足しているにすぎない。



そういう不確かな空気のような物にあぐらをかいて、分かったような気になっている芸術家や大衆を僕はあまり好まない。



ときにはすべてを明確にさせ、分からないものは分からない。分かったものは分かった。という風に素直に認め示し、みんなと同じ土俵で示さなければ説得力がない。

せめてもの、分かりやすく示そうという気概さえ失ってしまったのでは、もはや話しにならない。