「希望」っていい言葉だな。


希望・・・


それを口にしたところで、抽象的な響きしかしないし、なんの保証だってありはしない。



人は希望なしで生きていけるだろうか。

答えはYES

おそらく、それでも懸命にすれば生きていくことはできるだろう。


ミスチルの「one two three」を聴いていたら、歌詞に映画の「ショーシャンクの空に」が出ていて、久しぶりに観たくなって観てみた。


この映画の中に込められたテーマだと思うけど『生に励んで生きるか、死に励んで生きるか』というのがある。



終身刑を言いわたされ、刑務所の中で一生を過ごすような囚人たちの生活の内容。

そんな環境の中、いったいどうやって生に励んで生きてったら良いんだ。

そんなん無理だろ。




終身刑を言い渡されていたが、恩赦で出所できたある老人がいた。


しかし、その老人は実に50年もの間、刑務所の中で過ごしてきて外界に出ることとなったのだ。


今さら出所したところで、老人の居場所など、どこにもない。


老人は恩赦に戸惑い、刑務所を出るとき泣いてとどまろうとした。


しかし、とどまることは許されず、老人は出所した。


老人は外界に出たところで、罪人であったことには変わりない。


周りの目。
昔とはすっかり変わってしまった外界。
親類、友人、知人すらいない。
年老いた我が身。


それでも老人は過酷な日常を働き過ごした。


しかし、老人はやがて死んだ。
首をくくって。


老人は刑務所内にいた頃は、囚人たちに本を貸し出す係の役割を与えられていた。


老人はそんな慎ましくも、囚人仲間と過ごす安らかな日々を愛していたようだ。


刑務所は老人にとっての、ささやかな居場所だったのだ。


もう一度ワザと罪を犯して、刑務所に戻ることも考えたが、もうそんな気力さえ老人にはなかった。


老人には、すでに希望はなかった。


つまり老人は出所してから、どうにか日常を生きてきたわけだが


死に励んで生きていたわけだ。


人は生きながら死ぬことだってできる。


肉体は生きていても、精神が死んでいる状態がそれだ。


全てをなくした後で、生に励んで生きることなどできるのだろうか。

全てをなくして、重い枷を付けられて、生に励んで生きていくことなどできるだろうか。

希望。


人は希望なしでも生きていけるだろう。


でも、肉体が生きているからには、精神も生きていたい。

時には高揚したい。


僕には特に希望があるわけではない。


でも、高揚したい。


ほそぼそと生きていたって、

特に理由がなくても、時には鼻歌まじりで外を歩ける瞬間があり。

映画を観たりして、心から感動して泣くこともあり。

心をうつ音楽や、文章にふれて身震いするような興奮があったり。

恋をして、我を忘れるほど夢中になったり。

魂を解き放つように、ギターをかき鳴らし大声で歌ったり。

スポーツで活躍して、ゴールを決めた瞬間のような無敵感があったり。


そこには、陰惨で計算高く、ずる賢いものが入り込む余地などないほどの、神聖な感動と歓喜と興奮があり。

セックスなんかの快楽など、及びもつかないくらいの恍惚感があり。

まさに希望に満ち溢れている瞬間で、脳汁ドバドバ状態のような。

そんな特別。

そんな特別な瞬間が感じられるときがあるから、生きていけるような気がする。


しかし、そんな瞬間、当然長く続くわけでもなく・・・


しかし、そんな瞬間が再び、必ずあると信じて生きていたい。


いつだって・・・



死に励んで、寿命の刻みを数えながらの生活はもうたくさんだ。


どうしたら希望が見つかる?

どうしたら希望ある生活を長く続けることができる?



たとえ刑務所の中だろうが、拷問部屋だろうが、病室の中だろうが、老人ホームの中だろうが、僕の狭い部屋の中だろうが、見つけて、とどまらせることができる日が来るさ。