前ブログで、ガチ(本気)になれることの魅力を書きました。

 

 

たとえ失敗しても、その時ガチで向き合っていたなら、後になってきっと良かったと思うはず。

 

 

中途半端に手を抜いてやってたら、納得できないままモヤモヤしてると思う。

 

 

ガチでやってたからこそ、たとえ失敗しても全力を出せたんだから納得できるんだと思う。

 

 

なかにはガチで向き合って失敗して、カッコ悪いとか思う人がいるかもしれない。

 

 

あのときの自分は全力じゃなかったんだと言い訳できるから。

 

 

でもそんな保険はいらない。

 

 

誰にかっこ悪いと思われようが、結局は自分が納得できていたかどうかなんだから。

 

 

絶対にガチの人生のほうが楽しいと思う。

 

 

自分に納得がいく人生のほうがいいはず。

 

 

もちろん、あらゆる物事にガチになる必要はない。

 

 

そんなのシンドイだけだ。

 

 

自分の好きなこと、自分がガチになると決めたことに、素直にガチになれたほうが楽しいに決まってる。

 

 

 

前回、ブログにて考え方の転換 『PERFECT DAYS』 幸福について①を書きましたが、今回はその②です。

 

 

前回は映画『PERFECT DAYS』についてご紹介させていただきました。

 

 

今回は漫画「ひゃくえむ。」について。

 

 

昨日、1人で映画館へ観に行ってきました。

 

 

映画も相当素晴らしい!漫画では表現しきれない迫力がすごい!

 

 

 

 

そしてOfficial髭男dism「らしさ」がものすごく映画にあっていて良い!名曲!

 

 

↑YouTubeの字幕アイコンを押せば歌詞が画面に表示されます。
 

これ一度、Official髭男dism「らしさ」の歌詞も見てほしい。

 

 

 

 

作曲者・作詞者である藤原さんも、絶対この作品の原作をよく読んで書いてるよね。

絶対、自分にもこの作品の内容とリンクする部分があったんだと思う。めっちゃ気持ちが入っているのが分かる。

おそらく、藤原さんがこの作品を読んだうえでの、最高のアンサーソングなんだと思う。

 

 

 

 

 

映画も良いけど、でも個人的にはやはり、原作である漫画のほうが5倍は内容が濃い。

 

 

作者の考えがそのまま詰め込まれているからです。

 

 

入りは映画から入ってもいい、でもそこでびびっと衝撃を受けたなら、漫画も読んだ方が良いです。

 

 

でもこの映画には、原作とはまた違った躍動感と感動があるのも事実であり、結果、両方とも必要ですね。

 

 

たぶん5回くらい観に行っても楽しめる。

 

 

ちなみに原作者は『。-地球の運動について-』を描いた人。魚豊氏

 

 

作者のデビュー作が「ひゃくえむ。」です。

 

 

驚いたことに、21歳のときに描かれた作品だということです。

 

 

諌山創氏のときの「進撃の巨人」にも感じたけど、この若さでこの内容が描けるんだ?

 

 

まったく・・・

 

 

魚豊氏はその頃、「死」についてめっちゃ考えていたそうです。

 

 

哲学的な側面が強い人なのだと思う。

 

 

だいたい処女作にその人の等身大のすべてが詰め込まれた作品が多い。

 

 

だから注目している表現者がいたら、処女作にも注目してみるのが良いと思います。

 

 

映画『PERFECT DAYS』、漫画「ひゃくえむ。」

 

 

両作品に共通するのは、人生において充足感を得るためのコツとなる考え方、その本質が描かれているであろうということです。

 

 

ただし、両者のテーマは「幸福について」という点で同じだとしても、その考え方の角度が全く異なります。(私が主観的に感じたテーマ性なだけであって、両作品の作者にとってのテーマは別かもしれません)

 

 

映画『PERFECT DAYS』だとしたら、漫画「ひゃくえむ。」の考え方といえるかもしれません。

 

 

これはどちらが正解であるかとの問題ではなく、両者とも同時に存在する真理だと思います。

 

 

 

 

 

 

前置きはこのくらいにして、漫画「ひゃくえむ。」を読んで私と照らし合わせ感じたこと

 

 

 

私たちは誰もが何か、1位になることに意義を感じる。

 

 

1位の世界は、自己肯定感のマックスの場所であり、甘美であり、そこからしか見ることのできない、例えようもない世界に浸れることができるのだろう。

 

 

私たちは生きていく上で、否が応でも競争にさらされます。

 

 

今回の「ひゃくえむ。」でしたら、陸上100メートル走の世界における競争。

 

 

100メートル走にかぎらず、あらゆる物事の中で競争は発生します。

 

 

なぜなら、自然の摂理の本質が弱肉強食だからです。

 

 

まぁそれは今回はおいといて、私たちはいつも、いつの時代でも「競争」にさらされる。

 

 

スタートラインにつきたくなくても、気づいたらついてるんだから仕方がない。

 

 

たとえば100m走だったら、小学校の頃からすでにある。

 

 

「ひゃくえむ。」では「100mだけ誰よりも速ければ、全部解決する」という代表的な言葉が出てくる。

 

 

この言葉、主人公トガシが、少年期、社会人期の2回、ライバルである小宮に話すシーンがある。

 

 

これ実は同じ言葉でも、主人公が少年期に言ったときと、社会人期に言ったときで、秘められた意味が微妙に変わってきてるんだと思う。

 

 

少年期に言ったときの意味は

 

 

学校で、クラスで一番速いやつが人気者になれるっていうやつです。

 

 

1位になった。しかしそこで終わりではないことにだんだん気づいてく。

 

 

次からまさに本当の戦いが始まる。

 

 

次は1位を死守するための戦いだ。

 

 

その頃からプレッシャーを感じだす。

 

 

小学校時代は第二次成長期の始まりの時期でもある。

 

 

後から成長することによって追い上げてくる者たちが山ほどいる。

 

 

中学生になり

 

 

運よく1位が保てたとしても、上を見てみる。

 

 

次は地区大会で1位だ。

 

 

次は県大会、全国大会、世界大会

 

 

1位は上を見上げればキリがないのです。

 

 

つまり、いつかは誰もが、程度の差こそあれ、挫折や諦めと妥協を経験することになる。

 

 

世界1位の者以外の99.999999999%の者は世界1位になれない気持ちを持っているんだから。

 

 

それが世間の超大多数なんだから。

 

 

それどころか、たとえ世界1位になった者でも、挫折や諦めを経験したことがあるはずだ。

 

 

いつか人は衰えるし、1位の席を誰かに譲ることになる。

 

 

したがって1位を目指すこと、それ自体は人生の幸福を目指すための手段のうちの一つにすぎないのであって、それが幸福を追求する目的だとは必ずしもそうじゃない。

 

 

 

みんな誰もがサラっと生きていない

 

 

 

 

純粋な楽しさからの行動だったはずなのに、何が楽しくてやってるのか分からなくなってくる。

 

 

そして後からやってきた者に追い抜かれ、追い求めることに疲れ、やがて諦める。

 

 

気づいたらドベ争いの中で戦っていることに気づく。

 

 

そして現実逃避をはじめる。

 

 

他に楽しいことが見つかれば、それでいいのかもしれない。

 

 

でも楽しいことなんか、そうそう見つけられない。

 

 

それどころか、他に様々な精神を削ってくる出来事が、人生には絶え間なくやってくる。

 

 

自分は本当はなにがやりたかったのか分からないまま、社会人となり

 

 

何か分からないけど、現状維持を保ちつつも、「何かあるかもしれない」という淡い希望を抱きながらも日々を過ごしていく。

 

 

やがて自分を保てなくなってくる。

 

 

少しでも安楽な場所を見つけ、次はそこを死守する。

 

 

アルコールに逃げる。

 

 

アルコールで気を紛らわせるのも悪くない。

 

 

でもそんな中でも、生きていればキラっと光る、何か本気(ガチ)になれる瞬間に出会えたりする。

 

 

本気になっているとき、不思議とそのときはアルコールが1滴も必要なくなる。

 

 

何かに本気になる、夢中になるっていうのはそういう特別な瞬間だ。

 

 

そういう瞬間は、アルコールなんかではごまかされない。

 

 

 

「本気になる」そのものの味は、酒の味なんかより格段に旨かったことを思い出す。

 

 

 

 

 

 

という風なことを漫画「ひゃくえむ。」を読んで、私に照らし合わせ考えさせられた。

 

 

 

 

 

 

 

ラスト近く主人公トガシは、挫折を味わい目的を見失ったライバルに、100m走を何のために走っているのかを問われたとき

 

 

 

「真剣(ガチ)になるため、それ以外いらない」と説いた

 

 

 

実にシンプルだ。

 

 

ずっと何のために走っているのかが分からず、苦しみ続けた主人公だが、

 

 

10数年走り続けて、やっと出た答えだった。

 

 

人生、ガチになれるものがあることほど、最高なことはない!

 

 

私は読みながらそう思った。

 

 

 

主人公は続けて語る。

 

 

「自分を振り返ると、なんだかテンパってる人生だった。

 

 

孤立や敗北を恐れたり、逆に負けねえって開き直ったり

 

 

そのせいで現実を直視しなかったり、誰かが見てくれてるとか妙な信仰したり

 

 

まぁそんなこんなあって、やっと真理にたどり着いた

 

 

人間(おれら)は最後まで自分の心しか理解できないし、誰にもどこにも居場所なんてない

 

 

連帯も共感も愛情もすべてこっちの思い込みだ

 

 

そして極めつけに みんな 絶対 死ぬ

 

 

冷静に考えたら、こんなヤバイ話ってないよ

 

 

そんな真理が俺らを絶えず不安にさせる

 

 

・・・不安にさせる が そんな真理には

 

 

人間(おれら)が本気でいる時の”幸福感”を1ミリも奪えない

 

 

そんなのを今まで散々見てきた」

 

 

 

 

場面は別に移り、伝説のスプリンター財津選手が引退を表明し、マスコミ陣から「将来のスプリンターにメッセージを」とコメントを求められ言った言葉

 

 

 

「選手生活を終え、やっと私は今、断言できる

 

 

100mは一瞬に人生を凝縮させる

 

 

センチのズレで破綻する グラムの違いで破滅する

 

 

緊張で吐くし 酸欠に溺れる

 

 

だが だからこそ得られる高揚がある

 

 

あの距離にだけ許された豊かさがある

 

 

希望、失望、栄光、挫折、疲労、満足、焦燥、達成、喜怒哀楽

 

 

あの距離に全部つめ込んで 極上の10秒を味わえ」

 

 

 

 

そして悟った主人公は、いや主人公たちは、ラストシーンで100mを、「希望、失望、栄光、挫折、疲労、満足、焦燥、達成、喜怒哀楽」その全部を詰め込んで それを表現しながら走っていた。

 

 

 

走るのが、好きだと

 

 

 

 

意外なことに、100m走の決着が見られずに終わる。

 

 

 

おそらく作者は、100mの結果よりも、その過程で本気になって楽しんでいる主人公たちへと、読者のフォーカスを集めたかったのだろう。

 

 

この作品は100m走を題材にした作品だけど、その他すべての物事にも存在する、共通する、人の幸福について語っていると思う。

 

 

この作品は名言が多くて、他にも紹介したい部分がたくさんあるんだけど、長くなってしまうからまた今度近いうち紹介します(笑)

 

 

 

 

 

最後に

 

 

 

人は本気になれることがあっても、どうせダメだからとか

 

 

過去に本気になって失敗した自分を思い出したり

 

 

怖くなったり、不安になったり、面倒くさくなったり

 

 

傷ついたり

 

 

何らかの言い訳を引っ張り出してきて、それを材料にして本気になれなかったりする

 

 

 

 

でも違うんだ

 

 

 

 

成功や失敗などの「結果」、そこに本気になるための価値があるわけじゃない

 

 

 

 

 

 

「本気になれている今」そのものに価値があり、幸福があるんだ!

 

 

 

 

 

 

本当に本気になれているとき、その瞬間は恐れだって不安さえ感じない この上ない歓喜に満ちているはず

 

 

 

 

 

思考転換するんだ!

 

 

 

 

 

「本気になる」それはその人の生命エネルギー「熱量の高まり」 そのものなんだ

 

 

 

呼吸が早まり、鼓動が高まり、汗がにじみだす

 

 

それは決して「恐怖」や「不安」からきているだけじゃない

 

 

 

本気になれるモノ、それ自体が何であるかにさほど意味はない

 

 

 

本気になれることがあったら、それが何であってもいいんだ

 

 

 

人にどう思われようが関係ない

 

 

 

 

 

 

 

 

本当に恐ろしいのは、何物にも本気になれなくなってしまったときだ

 

 

 

今日、中学の頃の同窓会兼忘年会があった。

 

 

たった3人しか集まらなかったけど。

 

 

もちろんみんな同い年の同世代。

 

 

みんないいおっさんだ。

 

 

みんな大人になり、いろいろ人生で抱えてるものがある。

 

 

その中の一人が飲みの帰り道で言った。

 

 

今日の忘年会に来るのに、4歳の息子がドアの前でそいつ(父親)を忘年会に行かせまいと、大の字になって引き留めるんだと言う。

 

 

引き留める息子を母親がおさえ、その間にそいつは忘年会に来てくれた。

 

 

おかげで、忘年会でそいつと昔の話やらなんやら、いろいろ楽しい話ができた。

 

 

でも、そいつは幼いながらも、父親を行かせまいとする健気な我が子の姿に、幸せを感じたと言っていた。

 

 

寝ているときに、はしゃぐ子供に顔を踏まれてうっとおしいな、と思いながらも、そういう毎日に幸せを感じると言う。

 

 

家庭をもたない私には、知ることができない世界だ。

 

 

小さいころ私も、父親に同じようなことをして困らせたんだろうか。

 

 

遠い数世代前からも、そういった人の営みが繰り返され続けてきたんだろうなあ。

 

 

息子に外へ行かせまいと健気にドアをさえぎられる気持ちってどういうものなんだろうか。

 

 

ふと帰り道一人、電車の中で思いめぐらせた。

 

 

私にそうやって、健気にドアを開かせてくれないような存在はいないなあ。

 

 

 

駅の階段を降りながら思う。

 

 

みんな色んなものを抱えちまったんだな。

 

 

忘年会、楽しく話せて幸せだった。

 

 

でも正直なところ、変わらずとも変わっていくみんなに、ある種の寂しさとうらやましさを感じた。

 

 

冬の訪れを思わせる、初冬の風が頬をすり抜け、酔いのせいで暖かくなった頬が引き締まる。

 

 

また1年が終わりを告げていくのか。

 

 

まったく早いものだな。

 

 

そういえば、肝臓の数値も上がってきたから、飲みに行くのも控えないとな。

 

 

なんてね。

 

 

それにしても、寒すぎもなくちょうど良い季節だなあ。