p51 バロックに傾倒していたわけでも、

J・S・バッハが好きだったわけでもなく、

「バッハ弾き」と言われたヴィルヘルム・ケンプにいたってはその名前すら知らなかったのに、

その後、輸入盤店でLPまで買ってしまうことになるこの曲のタイトルが、

『主よ、人の望みの喜びよ』

だということを知ったのは、

20年ほど前、

僕がまだ名古屋でパンを焼いていた頃のことです。


仕事場の近くに

「アロハ商会」

という名のオルゴール屋さんがありました。

きっと輸入雑貨なども扱う卸問屋の一階の空いたスペースに併設されたオルゴール用のショーコーナーだったのかもしれません。

その証拠に、

素通しの窓ガラスに 貼られた赤いカッティングシートの「アロハ商会」の文字は、

どう見ても素人のやっつけ仕事。


それでも、

その頃の僕にとっては、

特別なとっておきの空間だったのです。

大好きな『オルゴール屋さん』だったのです。


お店の棚には所狭しと、いろいろな大きさ、さまざまな形のオルゴールが並んでいます。

カウンターの中にはいつも品の良い様子の老紳士がひとり。

短く刈り込んできれいに撫でつけられた白髪まじりの髪に、パリッとした白いシャツ。

落ち着いた色目のベストと、茶かグレーのスラックス。

とどめはお約束の蝶タイ。


仕事帰りの僕はといえば、

ヨレヨレのTシャツもしくはトレーナーに、ジーンズ&くたびれ放題のスニーカー。

そんな僕にイヤな顔ひとつせず、

「いらっしゃいませ。」


その途端、

オルゴール以外には何の飾り気もない空間が、

魔法にかかったように、キラキラし始めるのです。


「聞いてみたいのがあれば、おっしゃって下さい。ご用意いたしますから。」

「すいません。いつも聞くだけで。」

「いいんですよ。このごろは、あなたのようにオルゴールをゆっくりうれしそうにお聞きになるお客様も、めっきりいらっしゃらなくなりましたし。」


カウンターのすぐ横に1500㎜のガラスのショーケースが1本置かれていて、

その中には、

棚に並ぶオルゴールとは明らかに趣のちがうものが数点飾られています。

ちょうど5本セットのレンチが入っている木箱ほどの大きさのそのオルゴールは、

ずっしりとした重厚さを感じさせる輝きを放ち、

縁取りには象嵌細工が施してあります。


ある日、


「これも聞かせてもらっていいんですか?」

「是非、お聞きください。」


取り出されてテーブルにおかれたそのオルゴールは、

ゆっくりとカチカチ、

ゼンマイの音が苦しくならない八分目ほどを優しい白い手で巻かれ、

そっと扉が開かれ、

スイッチがオンになる。


金色のシリンダーが音もなく回転を開始し、

えもいわれぬ音色を奏で始めました。


鳥肌が立ちました。

聞いたことのない音の世界でした。

扉の内側に貼られたラベルには


『主よ、人の望みの喜びよ』


と書かれていました。(オルゴールが聞けます。→「j05-3.ram」をダウンロード

子供の頃からずっと耳に残っているこの優しい旋律は、こういう名の曲だったんだ。


しばらくのあいだ、

親しい人への贈り物やお祝いはもっぱらオルゴールでした。

20個ぐらいにはなったでしょうか。

それでも、次のパン屋に移るまで500日ぐらいは通ったことを思えば、

決してありがたい客ではなかったかもしれません。


「オルフェウス」

という名の、あのオルゴールのことも、

「アロハ商会」

のことも、すっかり縁がなくて今はわかりません。

誰かご存じの方はいませんか?あんな商売ができるようになりたくても、彼の域にはまだまだ30年ぐらい歴史が足りないことを実感させられる日々なのです。 ぱん衛門