「テマン 兵舎の俺の部屋から 紅の包みを持ってきてくれ」
「はい 大護軍」


慈光寺を出て宿屋に向かう途中で チェ・ヨンがテマンにそう頼み事をすると、彼は瞬く間に駆けて行った。


「チュンソク、宿屋の警護は」
「今は 丙組のウビンに任せておりますが、奥方様が入られたら俺とテマンでつきます」
「え? でも・・・」
「その方が 安心ですから」


チェ・ヨン自らがいてくれるんじゃないの? 彼がいたら 他の隊員なんて必要ないんじゃない?


出かかった言葉を ウンスは飲み込んだ。
ここは元との国境の村だし、うかつなことを うかつに大きな声では言えない。
彼女もまた 苦労を重ねた一年の間に かなり慎重さが身についたのだった。


『丙組のウビン』は 彼女が昼に 尋ねた兵士で間違いないようだったが、彼女は促されるまま無言で彼の脇を通り抜けて部屋へと通される。
彼女が宿屋に置き忘れた荷物は、チェ・ヨンが代わりにウビンから受け取り 彼女へと返された。


「荷物を置いたまま 天門のあの場所へ戻ったのですか?」
「荷物って言っても 数枚の下衣だけよ? 医療道具や手帳は百年前のあの時代に置いてきたし」
「・・・『華陀の形見』にするために?」
「ええ、キ・チョルの師匠って奴があれをどうやって手に入れたかは知らないけど とりあえず私が住んでた庵に置いてきたわ」


苦笑いをしながら、ウンスは 肩をすくめた。
あの手帳のせいで色々とんでもない目にあった。が、あの手帳がなければ 彼を助けることができなかったのも事実だ。
諸悪の根源は 燃やしてしまおうかとも思ったけど、百年後の未来を誤ったほうに捻じ曲げてしまうのも怖くて 結局記憶の通りに残してきたのだった。


「大護軍、持ってきました」
「ああ、ご苦労だった」


宿に着いて チュンソクが二人の夕餉を手配している間に もうテマンは チェ・ヨンに言われた荷物を持って戻ってきた。
真紅の風呂敷に包まれた荷物は テマンがチェ・ヨンへと渡したそのまま チェ・ヨンからウンスへと渡される。


「・・・え?」
「貴女にと 用意したものです。気に入ればよいが」
「開けてもいい?」
「どうぞ」


なんだろう、と思って少し緊張しながら包みを解いたウンスだったが、中身をみた途端 身体が固まった。


「・・・キレイ」
「・・・気に入ってくださったか? できれば明日着ていただければと思ったのだが」
「すごくキレイな着物! 用意してくれたの? 明日のために?」
「明日のためというよりは・・・開京に戻って皇宮に参内する時にでも と思ってたのだ」
「勿論 その時も着るわ! こんなキレイな衣を用意して 待っててくれたんだって 嬉しくって泣きそう」


それは ごく薄い桃色の生地に鮮やかな紫の桔梗が散りばめられた 美しい衣だった。
肌触りも心地よく かなり高価な絹地でできていると思われる。


「これ・・・どうしたの・・・?」
「まぁ、俺が選んだというか、・・・王妃に賜ったというか」


説明し難いのか 困ったような笑みを浮かべるチェ・ヨンに、クスクス笑いながらウンスは抱きつく。


「ありがとう。 婚儀を明日って言ったのは これを着せるためだったの?」
「ええ、まぁ。 俺もさすがに 近衛隊二等兵の鎧でという訳にはいかぬし」
「・・・そういうことにしといてあげるわ」


二人の夕餉を運んで来たチュンソクが 入るに入れず部屋の前で困ったように立ち尽くしているのを他所に、婚儀を翌日に控えた高麗で最も幸せな二人は いつまでも楽しそうに微笑み合っていたのだった。








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話は 2年前に遡る。


元との大きな戦いを制し、一先ず国境が落ち着くのを待って チェ・ヨンは一度開京に戻ってきた。
王は 彼の真意を知っているから 国境を離れたがらないのを許しているが、戦の総大将を務める者がいつまでも王に戦勝報告しないのでは 示しがつかず、重臣たちも難色を示し始めていたからである。


「チェ・ヨン。よく戻った」
「お久しぶりでございます 王様。戦勝報告せよと言われましたので 戻りました」
「その割には 重臣たちが帰った後に 単身で余の元に参ってるではないか」
「わざとらしい大げさな歓迎など好みません」
「・・・そなたらしいな」


変わらないチェ・ヨンの物言いに 王は片頬だけ上げて微笑む。
重臣たちの前でなら 大仰な戦勝報告も必要だろうが、二人の間ならばそんなものは必要がない。
チェ・ヨンから王へのいくつかの報告と提案の後は 王と臣下ではなく 友人としての時間になった。


「そう言えば 今夜か明日にでも 坤成殿に寄ってくれまいか? 王妃も久しぶりに顔をみたいそうだ」
「・・・ですが それは」
「さすがに今はもう 余はそちに悋気をおこしたりせぬ。そちも叔母に会いたいだろう?」


かつて 王と王妃が互いの心の内を知らず すれ違っていた頃、王妃が内々にチェ・ヨンを呼び出したと聞き 彼に悋気を起こしたことを思い出し、王はフッと笑いながら言った。
心が通じた今ならば、あの時の王妃の行動もよく理解できる。 王は 最愛の后の顔を思い浮かべ また笑みを浮かべたのだった。


「・・・・・」


叔母に最後に会ったのは 一年以上前になるだろうか。
かつて赤月隊にいた頃は六年以上会ってなかったのだから、叔母が甥に会いたいと思っているかどうかは謎だが、まぁ開京にいるのだし 顔を見に行ってもいいだろう、チェ・ヨンはそう思った。


「・・・王妃様にお目通りを頼む」


坤成殿前の武閣氏に そう頼むと、部屋から出てきたのは 彼の叔母だった。


「久しいの」
「ああ」


元々無口な彼らだから 一年ぶりであっても 挨拶はそんなものだ。
王妃なりに気遣ってくれたのだろうが、彼女には申し訳ないが 二人の挨拶は素っ気ないにもほどがあった。


「今 呉服屋が来て秋の衣を選んでおったところでな 散らかっているが気にするな」


そう叔母に言われて 部屋に入ったチェ・ヨンの目には 鮮やかな色とりどりの女人用の衣の生地が部屋中に広げられていた。


「ああ、チェ・ヨン。折角来てくれたのに 散らかっていてすまぬ」
「いえ、お構いなく」
「・・・どうじゃ? そなたもどれか選ばぬか?」
「・・・・・」


王妃は 部屋の隅のほうにある 無地の衣生地のどれかのつもりで言ったのだが、チェ・ヨンの目は 別の隅のほうへと向いているようだった。


その中で 薄い桃色の生地に紫の桔梗が描かれた布は、この部屋中の生地でも指折りの高級なものだったが、それを衣に仕立てても王妃には着こなす自信はないものだった。


『この衣は 相当色白の女人でないと似合わぬ。・・・そう、医仙のような』


「・・・そなたが目をつけたのは これであろう?」
「王妃さま? え、いや、俺は・・・」
「妾も この布を見た折 医仙を思い出したのだ。彼女なら似合うだろうと」
「王妃さま・・・」
「チェ尚宮 この布地を チェ・ヨンに賜る。差配せよ」
「王妃さまっ!? しかしっ」
「医仙は必ず戻られる。・・・その折に着ていただけるだろう」


にこっと王妃が浮かべた笑みは 慈愛に満ちたものだった。一国の王妃に相応しい威厳あるそのほほ笑みに、チェ尚宮もそれ以上は言えず 黙って甥に布地を差し出す。


「馬鹿者が。王妃さまはお前自身で着るようにと あちら側にある無地の生地をおっしゃったのだというのに」
「・・・・・」
「やはり、お前には渡さぬ」
「・・・叔母上?」
「チェ尚宮?」
「王妃様さま。無骨な武人であるこの甥に 布地を渡したところで何になりましょう? せめてこの叔母が 仕立ててやりたいのです」
「しかし、医仙は現在この地におらぬ」
「武閣氏に 同じくらいの体格の者がおります。少しゆとりを持って作れば大丈夫でしょう。お任せください」


意外な叔母の言葉に チェ・ヨンは驚いて言葉が出てこなかった。
あからさまな否定はしないものの、叔母が いつまでも医仙に対する未練を捨てぬ自分を 快く思っていないのをわかっていたからである。


『本当のことを言えば、私は医仙の帰還を信じてはおらなかった。だが、お前や王妃さまが微塵も疑ってないのを見て 例え無駄になったとしても 衣を仕立ててやりたいと そう思ったのじゃ』


しばらく後になって、その時のことを チェ尚宮はそう振り返って言った。
信じなくてすまなかった、と甥の嫁になったウンスにそう詫びながら。

おばばさま、と よちよち歩きの赤子が、そんなチェ尚宮へとトコトコと歩み寄る。
生涯独身で女官の道を選んだこの身に あの時は こんな未来が待っているとは 夢にも思わなかった。
甥が 心の底から欲した女人が 4年もの月日を経てこの地へ戻っただけではなく、新たな家族まで授けてくれようとは・・・。


それは、ウンスが高麗に戻った日から また何年か後の話であった。









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「そんなことがあったのね」


話を聞き 衣に対する愛おしさが増したウンスは、その滑らかな絹地に顔を埋めた。


チュンソクが差配してくれた夕餉を二人で囲みながらも、話は尽きることがない。
ウンスは話し上手なだけではなく、聞き上手だと 会話の内容までは聞かないようにしていたものの、聞こえてくる二人の声に チュンソクは心からそう思った。
大護軍の声をこんなに一度に聞いたことは 十年を超えるつきあいでも 彼は経験がない。
あの『高麗の鬼神』とまで呼ばれる大護軍が 恐らく蕩けそうなほど優しい眼差しで 奥方となられる女人を見つめているのだろうと思うと、チュンソクもまた開京に残してきた彼の妻のことを思い出し、会いたいと心から思っていた。


「叔母様が縫ってくださったなんて」
「・・・武芸一筋だと思ってましたゆえ 俺も意外でした」
「もう、酷い甥ね! すごく上手だわ 叔母様って何でもお出来になるのね」
「裁縫ならば 貴女も上手そうだが」
「・・・腹を縫うのは上手でも 布は縫えないのよ 私」
「・・・・・」


笑ってはいけないのだが、ウンスの拗ねたような物言いに チェ・ヨンは必死で笑みを噛み殺す。
医員としての彼女は とても優秀で凛としているのに、普段の彼女は 何も段差のない場所でも転びそうになる そんな女人だったことを 改めて思い出しながら。


「・・・でも、婚儀 こっそり挙げちゃって 平気なの? 高麗の大護軍の地位にある人が」
「それを言うなら、貴女だって 高麗の医仙ですよ。・・・王は地位を返上してませんから」


それに、と チェ・ヨンは楽しげに話を続けた。


「4年前に 王に願い出て許可を得ております。『高麗に医仙が戻られた折には 婚儀を認める』と」
「え? 本当に?」
「ただ・・・、 その時の俺は 考えが甘かったようです。『医仙』と貴女を呼んでしまった」
「・・・じゃあ、『よく似た他人』ってゴマかすのは 無理ね」


元の断事官は あの時とは既に違う人物が努めているが、だからといって彼が下した『医仙の処刑』という命は撤回されてはいない。
今も 元に命を狙われかねないということで、ウンスのことを『医仙とはそっくりだが別人』として 開京へと連れ帰ろうとしたチェ・ヨンだったが、姑息な企みはそう上手く運ぶわけもなかった。


「まぁ 本人なのに 『よく似た他人』って言われても 無理があるでしょ。 第一、『医仙を慕うあまりそっくりな女を妻にして連れ帰った』じゃ、貴方の評判がズタズタじゃない」
「俺の体面は この際どうでもよい。・・・貴女の安全に比べれば」


『医仙』は 天界の知識を王に授けたり、優れた医術を披露して そのままだったなら死を迎えただろう者たちを 王妃をも含め何人も救った。
あの時は この時代に長居する気はなく、請われるまま行ってしまった言動だったが、これからここで暮らすことを考えると不都合なことが多々ある。
ウンスには 今は手術道具もないし、これ以上政治に利用されたくもない。


「・・・じゃあ、天門を潜る際に 『天の知識は失った』ってことにするしか なさそうよね」
「・・・それは可能でしょうか」
「天門を潜ったことがあるの 貴方と私だけだし 大丈夫じゃない?」
「・・・全く 貴女ときたら・・・」


どこまでも前向きなウンスに チェ・ヨンは呆れたような表情を浮かべる。
仕事柄なのか性質なのか いつも最悪の事態を想定してばかりの自分と、常に いいことに目を向けようとする彼女。
そんな女人だから惹かれたし 常に救われ続けている。
明日になれば 自分の妻になる女人を見つめ、チェ・ヨンは誓いを新たにした。
『この先何があろうとも この最愛の女人だけは 必ず守る』 と。




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第三話です。 『婚儀は明日』とチェ・ヨンが言った真意と そのときの話。

『幕間』に入れたらネタバレになるので 密かに取っておいた話です。

叔母様は最強人物だと思います(笑)

そして、開京に戻った時の小賢しい企みをさわりだけ(笑)

って、そこまで到達できるの!?って感じです。

明日は Pandoria的ヤマ場パート1 の予定。