「何度言ったら分かるのです!?」
「わからないわよっ!」


だんだんと声が大きくなってきていることは承知していたが、そんな怒鳴り声の後で ガッシャーンと 何かが割れるような物音まで聞こえてきて、テマンは困ったようにボリボリと頭をかいた。
彼が 親のようにも兄のようにも慕う 大護軍チェ・ヨンには、美しいだけではなく優れた医術をも持つ妻がいるが、彼女はその分気も強く 夫婦喧嘩になることも少なくはなかった。


・・・何か(おそらくは湯のみ茶碗だとは思う)が割れる音がする というのは 珍しいことだったが。


「・・・痛いっ!離してよ!」
「離しません! 今日こそはっ」
「何よ? 力ずくで何かするつもり? 口で敵わないからって 女に力で訴えるワケ!?」


奥方、それは言い過ぎです・・・。


テマンは 盗み聞きする気は毛頭なかったが、聞こえてきてしまう夫婦喧嘩に ため息をついた。
これは簡単には収まらない類の喧嘩だな、大護軍の機嫌は最悪だろうから しばらく禁軍や近衛隊の訓練は 地獄の様相を呈すだろう。


「もういい! もう知らないわ 何もかも!」
「ウンス! 何を!?」
「もう貴方のことなんか 知らないって言ってるでしょ!」
「どこへ行くというのです? だって貴女は・・・」


ああ、大護軍、それも言ってはいけない言葉です・・・。


売り言葉に買い言葉なのは わかっている。
彼らは 普段はテマンが呆れるほどのラブラブな夫婦で、うかつに屋敷の中を歩けないほどに 場所を問わず接吻しているような夫婦だ。
奥方は 自分が俺を虐げているような気になるのか、ちゃんと屋敷の中で生活しろと言うが、目のやり場に困る生活も気まずいので 普段は警護と称して屋根の上に入り浸っていた。


・・・それで聞いてしまった 夫婦喧嘩。


原因は 分かってる。 ・・・当の二人は気が付いているかは わからないけれど。
互いを想いあっているのには間違いがないのに、頭に血が上り切っている今 仲裁にはいっても お二人とも聞く耳を持たないだろう。


テマンは大きくため息をつくと 家を飛び出していったウンスの後を追い始めた。
・・・忠義心の熱い彼には珍しく、大護軍には報告しないまま 独断での行動だった。




◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇




何よ!何よ!何よ!何よ! チェ・ヨンの馬鹿っ!!


一刻でも早く家から離れようと怒りに任せてズンズンズンズンと勢いよく歩きながら、ウンスは 夫のことを心の中で毒づいた。
数回曲がったような気もするが、どこをどう来たのか 元々方向音痴気味の彼女には もう分からない。
でも それが今は彼女は気分がよかった。
家には帰らない、帰る道も知らない。
心細くないと言えば嘘になるかもしれないが、とりあえず束の間の自由を味わうように ウンスは大きく深呼吸したのだった。


とはいえ、興奮物質アドレナリンの効果は 長くは続かない。
夫チェ・ヨンと大喧嘩して家を飛び出したのは 昼過ぎで、すでに陽は傾き始めている。
季節は初夏で 冬でないのが救いだったが、温かい日差しはなくなり うっすら肌寒さも感じはじめていた。

先ほど 飛び出してきた子どもとぶつかり、派手に転んでしまい 一度勢いを削がれた身体は 歩くことを拒んでいる。
集落の共同の井戸のような 小さい広場のような場所で 腰を下ろすと ウンスは 一気に心細さと肌寒さを身にしみて感じていた。


『チェ・ヨン どう思っただろう・・・』


まだ怒りは収まったとは言えないけれど、ウンスは 彼女の言葉に顔色が変わって凍りついたような表情になった夫の顔を思い出し、罪悪感にかられる。
言ってはいけない言葉だったのは 口をついて出てしまってから気がついた。
彼も 同じくらいの禁句を発したけれど、それはウンスが あの言葉を言ってしまったからだと 思う。


帰りたい。 でも 帰りたくない。


夫が言いかけた言葉 『どこにも帰る場所なんてない』を 痛いほど感じ、ウンスは唇を噛み締めたのだった。



「姉ちゃん どうしたんだ? そんなところに座って。 俺らと酒でも飲まないか?」

ぼんやりしていたウンスが ふと気が付くと あたりは夕闇に包まれ始めていた。
座り込んだ彼女の前に立ちはだかるように 男が3人、ニヤニヤとイヤラシイ笑みを浮かべている。

「結構よ! ほっといて頂戴」
「さっきから見てたけど あんたこの辺の奴じゃないし 行くとこもないんだろう? おごってやるよ 俺達と飲もうぜ」
「だから かまわないでって 言ってるでしょ!」
「ふぅん、威勢のいい姉ちゃんだな。 この元気がいつまで持つと思う?」
「俺ら3人を相手できるほど 元気だといいなぁ」
「いい着物着てるじゃねぇか いいことの嬢ちゃんかもなぁ」


彼女の着ているのは 彼女にとっては飾り気のない普段着にすぎなかったが、いつのまにか彼女は 貧しい民が多く治安がいいとはいえない都の外れまで来ていたようだった。
彼女に絡む3人は このあたりのゴロツキなのか、住民も遠巻きにして見ているだけで 助けてくれそうな気配はない。
感情のままに家を飛び出したウンスは 財布を持つことすら忘れていて 疲れても店にはいることすらできず 広場のような場所でぼんやりとしていたのだったが、それがアダになってしまったのか。

『ああ、無事に帰れたとしても これでまた怒られること間違いないわね・・・』


目の前の3人の男たちより 数段恐ろしい 目をくわっとひんむいて怒る彼女の夫の姿を想像して ウンスはため息をういたのだった。


「・・・そこまでにしておけよ。彼女の夫にバレたら 問答無用で斬られるぜ」
「なんだよお前!」
「・・・シウル」


手裏房のシウルが いつのまにか彼らの後ろに現れて 小馬鹿にしたように呟いた。
その挑発的な言動に まんまとかかった男たちが ウンスから注意をすっかり外して シウルへと向き直る。


「なんてったって彼女の夫は この国の鬼神だからな」
「な、なんだと!??」
「命が惜しければ さっさと逃げたほうがいいだろうよ。彼女と話しただけで悋気丸出しだからな 大護軍サマは」
「・・・シウル」


まさか 彼女の夫が後を追いかけてきたとも思えないが シウルの(半分以上は本当のことを言っている)ハッタリに 男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出して行った。
助かった、と思ったのも事実だったが、何となく腑に落ちないウンスは お礼よりも先に 咎めるように呟いた。


「まさか ずっとついて来てたの?シウル」
「いいや、俺が交代したのは 奥方が転ぶちょっと前だった」
「じゃあ・・・」
「テマンが 奥方を心配して ヨンの旦那にも何も言わずに つけてきてたらしいぜ」
「テマンくんが?」
「・・・ヨンの旦那は 自分では連れ戻せないからって 俺らに頼みに来たんだ。テマンもいないって言ってたから テマンを探してたら 奥方も見つかったってワケ」
「・・・そう」


やっぱり 自分では動かないのね。手裏房に頼んだんだ・・・。

ウンスが唇を噛みしめるように頷くと シウルは呆れたように ウンスを軽く睨んだ。


「全く。夫婦喧嘩の内容にゃ全く興味はないけどさ、ヨンの旦那をあそこまで憔悴させて 自分は都の外れで男に絡まれて、奥方何を考えてんだよ?」
「・・・好きで絡まれたんじゃないわよ」
「あのヨンの旦那が! マンボに頭を下げたんだぜ? 妻を探して欲しいって」
「・・・え?」


マンボ兄は チェ・ヨンの師匠ムン・チフの兄弟弟子にあたり、チェ・ヨンは『師叔』と読んで慕っている。
とはいえ、昔からの仲のせいか 互いに遠慮は全くなく、頼み事をするのに頭を下げるなんて 考えられない。


「そんだけ想われているんだよ奥方は! ヨンの旦那憔悴しまくってたぜ? いい加減帰ってやりなよ 送るからさ」
「・・・帰れない」
「奥方・・・」
「あの家には 帰りたくないの。・・・今はまだ」
「じゃあ、マンボんとこでいいか?」
「嫌」
「・・・じゃあ、どうすんだよ」
「皇宮に行くわ。送ってってくれる?」
「・・・わかったよ」


マンボ姐さんなら 内心ではどう思ってたとしても、ウンスを暖かく迎えてくれるだろう。
でも 彼女は所詮 チェ・ヨンを介しての知り合いにすぎない。 今はまだ 彼に筒抜けな場所で落ち着くことなんて できそうになかった。


「・・・シウル お願いがあるの」
「何だよ」
「馬借りたいんだけど お金貸してくれない? 財布持ってなくって無一文なの。歩き疲れて もう歩けない」
「・・・悪いけど 馬は貸せないことになってる。馬車探してくるよ」
「・・・え?」
「奥方に馬を貸して 北の国境に向かわれるのを心配してる誰かさんが 『馬だけは貸さないでくれ』ってさ」
「何よ それ」
「天女が天に帰るのだけは阻止したいんだろうよ。・・・心配はなさそうだけどな。なんたって適当に歩いて反対方向に来ている位だし」
「・・・どうせ方向音痴よ」


どんなに頭にきていたとしても 怒りに任せて自分の元の世界に戻るなんて 考えたこともなかったウンスは、また少し気分を害していた。
結局チェ・ヨンも自分を信用していない気がしたのだ。
第一、もう天門の開く日を計算するのを辞めてるし、行ったところで開いている保証なんてないのに なんでわざわざ高麗の領土とはいえ元にほど近い国境地帯まで行かなきゃいけないのか。


『どんなに怒ってたって、今生の別れになりかねない天門をくぐりになんか行かないのに!』


彼女の 自分の世界をも捨てて彼の元へと嫁いできた決死の思いを踏みにじられた気がして、ウンスは唇をまた噛み締めた。
今はまだ 泣けない。 泣くのは 今夜一人になってから。
少なくても 皇宮の典医寺に行けば、チェ・ヨンの影響だけではなく彼女自身が築いた人間関係のなかに身を委ねられる。
大護軍チェ・ヨンの影響下にない とは言えなくても、彼女自身を『大護軍チェ・ヨンの奥方』ではなく『医仙ユ・ウンス』として見てくれる場所に 彼女はいたかった。


「・・・そうだ、シウル」
「何?」
「助けてくれて ありがとう。 本当はちょっと怖かったの」
「・・・どういたしまして」


本当に彼女を馬に乗せたくないのか、シウルはどこからか馬車を調達してきて ウンスを乗せ自分は手綱を握った。
彼女のために特別にフカフカの座布団を何枚も敷き詰めた チェ家の馬車のようなわけにはいかなかったが、足が棒のようになってたウンスには 揺れるし椅子は痛いけれどその馬車がとても有り難かった。
そうして、彼女は自宅には戻らないまま 皇宮へと向かったのだった。





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夜中。

典医寺に誰もいなくなったのを見計らってから泣き出してそのまま、彼女はいつのまにか眠っていたらしい。
何時になったかは分からないが、ふと目を覚ましたウンスは ぼんやりと 自宅ではなく典医寺の居室であることを思い出した。
・・・彼女の夫が 傍らにいないことも。


暗闇は苦手だが、今は彼女を抱きしめて守ってくれるように眠る夫も 傍らにはいない。
会うのを拒んでいるのは自分なのに、どうしてそばに居てくれないのかと 心のなかで八つ当たりする自分もいたのだった。


その時、ふと彼女は 夫の気配を感じた。
何故と言われても説明できない、妻の第六感なのかもしれない。


「・・・そこに いるの?」


月の光のせいで ほんのり明るい窓の外に向かって、ウンスは呟いた。
不思議と確信していた。間違いなく夫は窓の外にいると。


「・・・はい、おります」
「やっぱり。 そんな気がしたわ」
「こんな時間まで起きていたのですか? 真夜中です。寝てください」
「貴方こそ」
「俺は夜警です。お気になさらず」
「私はいつの間にか眠ってて 今起きたところなの」


あれほど怒っていたのに、顔も見たくない帰りたくないと思ってたのに、夫の声を聞くだけでホッとして ウンスは瞳を潤ませた。
やっぱり来てくれてたんだ そばに居てくれたんだ と心から安堵する。


「部屋には入って来ないのね」
「中から閂がかけられているのでしょう?」
「・・・貴方にとっては 閂なんてあってないようなものじゃない」
「蹴破ることはできます。・・・が、入らせたくなくて閂をかけた貴女の心を 力技で入れば また傷つけてしまう」
「・・・あれは 言い過ぎたわ。ごめんなさい」
「貴女が謝ることはありません。事実ですから」
「チェ・ヨン・・・」


窓のすぐ向こうにいるはずなのに それだけで安心できると たった今思ったばかりなのに、囁かれる言葉は悲しげで ウンスは夫との心の距離を感じた。
ちょっとした夫婦喧嘩のはずだったのに どんどん亀裂が大きくなってしまっているような気がする。


「・・・開けないで。どうかそのまま聞いてください」


不安になったウンスが 窓を開けて夫の姿を確認しようと手を伸ばしたのだが まるで見えているかのように、チェ・ヨンから制止の声がかかる。
つい先程まで 避けていたのは自分のほうだったのに、ウンスはそれだけで泣きそうなほど切なくなった。


「・・・俺は 貴女が思っているよりずっと弱い人間だ。貴女を失うと考えただけで気がおかしくなる程に」
「・・・貴方・・・」
「独占欲は多分そこから来ているのでしょう。俺以外に貴女が笑いかけただけで身が焦がれるようだ。誰にも渡したくないから誰にも見せたくない。・・・それが貴女らしさを奪ってしまうことだと分かっているのに」
「・・・・・」


姿が見えないからこそ 口にできる言葉もある。
きっと、壁に凭れかかり片足を伸ばして床に座りながら、貴方は月を遠い目で見つめているはず。
ウンスは 彼女にも今まで決して見せようとはしなかった 夫の弱い面を告白され 胸にツンと溢れる想いを感じていた。


「・・・ですが、俺は貴女を不幸にしたい訳ではない」
「分かってる」
「・・・テマンから聞きました。 クネに苛められているようだと。・・・何故お話くださらないのか」
「・・・え?」


突然変わった話題についていけず、ウンスは素っ頓狂な声を上げ 思わず窓を開く。
チェ・ヨンは 彼女が思った通りの体勢で床に座り込み、開いた窓の中にいるウンスを見上げていた。


「クネって・・・おばさんのこと?・・・苛められているだなんて」
「クネは 確かに俺が産まれる前からいる古参の女中です。叔母上の信頼も篤い。・・・父上が亡くなって俺が家を飛び出してから今まで ずっとあの家を管理していてくれたことに感謝もしている。 が、俺の妻である貴女に命令できる立場ではない」
「・・・・・」


確かに 古参の女中であるクネは、ウンスに何かと厳しい態度をとった。
ウンスもまた 身分制度が一応ない現代社会から来たことと 儒教的考えから、年上は敬うものと思い クネの言う『名門チェ家の嫁はこうあるべき』という言葉に 従ってきたのだが、クネのそんな態度は 夫チェ・ヨンがいない時に限られていることは さすがに気がついており、腑に落ちないものを感じていた。


クネの言う『高麗の重臣の奥方の振る舞いや言動』、夫チェ・ヨンの言う『夫の不在の時は出歩かない』、その他諸々な言葉が ウンスに襲いかかって まるでやんわりと首を絞められているかのような息苦しさを感じて つい爆発してしまったのかもしれない。


テマンは屋敷内にいなかったりするせいか(屋根の上にいたりするのだが)、チェ・ヨンですら見えないところを見ていたのかもしれない。


「俺は貴女を窮屈な檻に閉じ込めたいのではない。貴女は貴女らしくしていてください。 そんな貴女だから惚れたのだし 夫婦になったのだ」
「貴方・・・」
「貴女が天界人で高麗に身内や後ろ盾がいないのは 拐ってきた俺が一番よく分かってる。 立場を上げるための婚姻などする気もないし したくもない。貴女以外いらぬのです。 クネが 家の奥方としての貴女を気に入らぬというのなら クネを追い出すまでのこと」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
「俺にとっては、貴女より大切な人などおらぬのです」


口下手だと思っていたチェ・ヨンが 真っ直ぐに彼女に向き直り 言葉を紡ぐ。

自分でも自覚してなくて 言葉にできずにイライラとしたわだかまりになっていた想いが チェ・ヨンの言葉で溶けて消えていくのを感じていた。


『ああ、私 ずっと こう言って欲しかったんだ』


両親に誇らしく思ってもらえる子供でいる とか、先生に自慢してもらえるような生徒でいる とか、頼りがいのある友達でいる とか、思えば今まで 『他人にこう思ってもらえる自分』というのに 常に縛られていた気がする。


全てを捨ててもいいと思えるほど愛した男は、ありのままのユ・ウンスでいいと言ってくれた。
ウンスは、それが何よりも嬉しかった。


「・・・チェ・ヨン」
「何です?」
「愛してる」


夫が好まない天界の言葉ではあるけれど、この溢れ出る想いを他に表せる言葉がなくて ウンスは呟いた。
言葉の意味は 随分前に伝えてある。 一瞬驚いたような表情の後、ウンスの夫は 嬉しそうに微笑みを彼女に返した。


「俺も ・・・愛しております ユ・ウンス。貴女だけを」


ゆっくりと立ち上がったチェ・ヨンが、彼女に降り注ぐ月の光を遮る。
そして 溢れでている涙を優しく拭うと 彼女の唇を覆ったのだった。


少し離れた木の上では、テマンが呆れたように でも安心したように ため息をつく。
目のやり場に困るのだが やはり二人はこうでないと落ち着かないな、と 彼は独り呟いたのだった。