何か欲しいものはありませんか? と 少し躊躇いがちに ウンスの夫になった男は 彼女にそう呟いた。



夫婦になって まだ日も浅い。
それだけでなく、考えてみれば かなり身近に過ごしていたとはいえ、彼らが共に時間を過ごしたのは たった数か月。
それから4年もの離れ離れの時を経て ようやく夫婦になれた。
互いのことを深く思いやって来たとは言っても、互いに知らないことも多かった。



・・・妻の 生まれた日も 然り。


「・・・欲しいもの、かぁ」


突然言われたウンスもまた、困ったようにほほ笑んだ。
2012年のソウル江南から 1351年の高麗帰京へ。
突然連れてこられて 彼女にはあって当然なものがなくて、随分と不便な想いをしたのは 遠い昔に感じる。


それよりももっと不便な 100年前の世界で 一人1年間も過ごしたせいなのか、すべてを捨て去っても一緒にいたいと思う男と ついに夫婦になったせいなのか、ウンスは『欲しいもの』と聞かれても 咄嗟に思いつかない自分に 驚いてもいた。


「知らなかったとはいえ、今日は貴女の誕生日なのだから、せめて 何か欲しいものを言ってくだされば 手配することができる」
「うん、ありがとう。・・・でも 咄嗟に思いつかないの」



新しい衣や靴、装飾品。

昔、キ・チョル一派に追っ手をかけられながらも 気晴らしにと市に出かけ 二人はデートを楽しんだことがある。
あの時に 欲しがったり 買うか買わないかで悩んでいた そんなものも、今なら誰に気兼ねすることなく 堂々と二人連れだって出かけ 買ってやることができる。
だから 出かけないか? と誘っても、ウンスは 困ったように笑うだけだった。


「うん、嬉しいのよ本当に。貴方に祝ってもらえて。・・・でも 本当に何も思いつかない」
「店を巡れば 欲しいものも出てくるのでは?」
「そうかもしれないわね。・・・もう少ししたら でいい?」
「何かその前に 用があるのですか?」


ウンスの様子が 彼の普段思い描くものとは違っていて、チェ・ヨンは困惑しながら 彼の妻を見つめた。


「・・・心がね 多分一杯なんだと思うの」
「・・・・・?」
「・・・昔、キ・チョルが言ってたでしょう?『心に穴が開いている。満足できない』って。・・・今の私 その逆なんじゃないのかなぁ? 欲しかったものをやっと手に入れた。満足しきってて 他に欲しいものなんかないのかもしれない」
「ウンス・・・」
「今が幸せ。他になにもいらないって 思わせるくらいに」


離れていた時間すら 再会した今なら あれは必要なことだったと思えてくる。
今の幸せを 噛みしめることができるのは 逢いたいのに逢えない苦しみがあったからだと。


「・・・そうね、とりあえず欲しいもの1個思いついたわ」
「何です?」
「貴方のキス」


ウンスが口角を上げてそう囁くと、チェ・ヨンは珍しく声を上げて笑ってくれた。
天界語をなかなか覚えようとはしない彼だったが、妻の告げた言葉は 真っ先に覚えた天界語と言っても過言ではない。


「・・・お望みのままに」


楽し気に囁いて ゆっくりとチェ・ヨンの唇が ウンスへと降りてくる。
ぽってりとした下唇。そして 口づけをするとき大きく右に傾く癖。
ゴワゴワしていそうなのに触ると柔らかい髪、すべてを見透かすような黒曜の瞳。
怒るとくわっと瞳を見開く癖さえも 愛しさを感じる ウンスの夫の仕草だった。

二つの唇が 一つに重なる瞬間、ウンスは うっとりと 瞳を閉じる。




・・・その後、二人が市に出かけたという報告は ない。