東浦賀は、かつて、干鰯(ほしか)問屋が軒を並べる商業の街として栄えていました。干鰯(ほしか)とは、カラカラに干した鰯のことで、関西地方で綿花栽培のための肥料として需要がありました。東浦賀は、干鰯の東西の中継基地として繁栄していました。

 

しかし、ある時期から、九十九里浜の問屋が発展し、東浦賀の問屋を経ずに江戸の問屋へ直接、品物を送るようになり、東浦賀の干鰯問屋は、元禄期を境に、次第に衰微していくことになります。

 

                           (青竹:NO.3810)