マイマイ通りに沿い稲田寺、海善寺と並んでいる「宝福寺(浄土真宗)」です。下田開港に伴い、一時、下田奉行所が設置されました。また、唐人お吉の菩提寺としても知られています。

 

お吉は初代米国総領事ハリスのもとに看護婦として派遣されましたが、ハリスがお吉の腫れ物を嫌がり3日で解雇されました。その後お吉は、髪結い業や小料理屋の安直楼を営むもうまくゆかず、世間の蔑視を受けつつ身を崩し、後に「お吉ケ淵」と呼ばれる稲生沢川に投身自殺しました。

 

門前に、大きな龍馬の像が建っています。

 

文久3年(1863)1月。土佐藩の老侯/山内容堂が江戸から藩の大鵬丸で上洛の途中、下田「宝福寺」で風待ちをしていました。時を同じくして、兵庫から江戸へ幕府の順動丸で向かう勝海舟(龍馬らを伴って)も、下田港へ避難してきました。

 

勝の入港を聞いた容堂は、是非とも酒席に招きたいと使者を遣わします。勝は宝福寺へ赴き、容堂と謁見。

 

勝は「龍馬の脱藩の罪を許して、自分に預けてほしい」旨容堂へ申し入れ。容堂は、それを許し、証拠の記載を求める勝に対し、白扇に「瓢箪」を描き「歳酔三百六十回鯨海酔侯」とサインしました。

 

1年に360日は酔っている容堂(鯨海酔侯)とのサインでした。

 

司馬さんの「竜馬がゆく」から。

 

勝海舟という人物は、(この男は)とみると、徹底的に親切になる。

どうしても竜馬を世に出してやらねば、と思って、「ちょっと、あの船に行ってくる」と、波の上のひととなった。

汽船「大鵬丸」に搭乗している山内容堂公に会いに行くためだ。

 

 

(容堂に頼んで、竜馬の脱藩の罪を許させてやろう)と、勝は、短艇を進めてゆく。

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勝は、短艇を進めてゆく。勝の短艇には、徳川家の「葵」の定紋が、艇尾にはためいている。(竜馬の世間を広くさせるのだ)と勝は思う。

脱藩の身では世を憚らねばならず、行動範囲も狭くなる。

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「いや、これは丁度良い。酒の相手が欲しかったところですよ」

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「勝殿。これはいかがかな」と、容堂は手枕のまねをした。酔ったから寝転んで話そうというのだ。海舟は余り酒を好まない。が、生まれついての酒が腹の中にあり、性格として素面でも酔い、凄んだところのある男であるから、いきなりごろんと横になった。

 

「それで?」と容堂。

「いや。竜馬は海南随一の男でありましょうな」

「ほう」

「将来かならず天下の用にたつ。」

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「まあ、海舟先生のおっしゃることだ」

「海舟先生のお顔に免じて、脱藩の罪、帰藩のこと、許しましょう。」

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「しかし」

勝は念の入った男である。

「ご酔中のお言葉ゆえ、もし後で行き違いがあってはなりません。証拠のお品を頂戴したい。」

「ふむ?」

 

この海舟の直談判により、龍馬は自由の身となり、天馬となって飛翔することとなります。時に、文久3年1月15日。

 

この「容堂、海舟謁見の間」は、「高知県立坂本龍馬記念館」で見ることが出来ます。

 

天下に飛翔した龍馬に対し、開国の陰にひっそりと咲いた「唐人お吉」。「宝福寺」には、「唐人お吉記念館」も併設されています。

 

                          (青竹:NO.3796)