上野公園の西郷像の後ろに、ひっそりと残された彰義隊の墓です。三ノ輪の円通寺に小さな彰義隊の墓地がありますが、上野公園には、この1基があるのみ。

 

司馬さんの「花神」から。

 

上野の寛永寺は将軍家の旦那寺で、家康の謀僧の天海が開いた。・・・・・・徳川家は代々京から幼少の宮をひとり貰い受け、寛永寺に座らしめ、「日光輪王寺宮」と称して、家康以来代々の将軍の霊を祭祀せしめていた。この幕末にも、日光輪王寺宮が上野にいた。・・・北白川宮能久(よしひさ)親王である。・・・・・・

 

「寛永寺は金貸しなのです」と蔵六はいった。・・・・・・

 

東叡山寛永寺は徳川家の菩提所であるために、幕府から大きな財政的基礎を与えられていたが、・・・・・・、幕府は500両を与え、これで諸大名相手の金貸しをすることを勧めた。・・・・・・

 

そして、其の日の場面。「花神」より。

 

・・・・・・戦況を決定的に変えたのは、午後一時頃、本郷台(加賀藩邸)から起こったアームストロング砲の砲声であった。・・・・・・

 

「ハハァ、皆さんこれで始末がつきました」と、蔵六は、見世物小屋で何かを説明しているオジサンのような声を出した。

 

そのうち騎馬伝令が上野から戻ってきて、「官軍の勝利」と触れ込みながら城内に入った。・・・・・・なかには、蔵六の知略に感じ入る者もいた。・・・・・・

 

                            (青竹:NO.3738)