弘前城追手門の南部「茂森山」一帯を削り、堀と土塁を構築した「長勝寺構」には、曹洞宗の寺院33カ寺が整然と並んでいます。その最も奥まった処にある「長勝寺」です。

 

享禄元年(1528)に大浦盛信が、父の光信の菩提を弔うべく、種里(現:鯵ケ沢町)に創建した寺です。津軽為信の代に、種里から賀田に移り、寺領100石を拝領しました。津軽家の菩提寺として、また津軽藩内曹洞宗寺院の「僧録所」としても重視されました。

 

津軽氏の本拠が堀越へ移ると、同寺も堀越へ移転し、慶長15年(1610)の弘前城築城に伴い、現在地へ移転。寺領も200石に加増されています。

 

寛永6年(1629)に津軽藩第2代藩主:津軽信枚が建立した山門です。高さは16.2mあり、国の重文に指定されています。文化6年(1809)の大修理の際、下層の両脇に「花燈窓」を設け、仁王像を安置しました。

 

柱は「通し柱」で、岩木山神社の楼門と同じ造りです。江戸時代初期の建築様式として重要です。楼上には、木造の薬師如来が山門(三門)本尊として安置されています。

 

 

花燈窓の仁王像です。

 

 

 

慶長15年(1610)に建立された本堂です。8室から成る建物で、曹洞宗の寺院本堂として、全国的にみて最古に属する貴重な禅宗様式(国重文)です。

 

内部は板敷廊下で仏間も板敷であるが、以前は土間だったとか。

 

茅葺き・切妻造りの「庫裡(国重文)」です。旧大浦城の台所として文亀2年(1502)に建築されたものを、移築しました。側柱と中央の柱を揃えて立て、各柱に登り梁をかけ渡すという中世独特の構造様式は、大変貴重なものです。

 

寛永年間(17世紀)に建てられた「御影堂(国重文)」があります。津軽為信木造(県重宝)を祀る御堂です。方3間。屋根は宝形造りの銅板葺きで、山門と同じ寛永6年(1629)の建築と言われています。

 

なお、為信木像は、慶長6年(1607)に病気療養のために上洛した際、仏師に彫らせたものと言われ、衣冠束帯に威厳を正す姿勢のものです。死後、革秀寺に安置されたが、同寺の火災に伴い長勝寺に移されたものです。

 

下の写真は「蒼龍窟(旧禅堂)」です。元は岩木山の百沢寺大堂の内陣に安置されていた「五百羅漢、薬師如来像、安寿像、厨子王像など」が、廃仏毀釈時に廃寺となった同寺の貴重な遺構として引き継がれています。

 

 

 

鐘楼です。「嘉元四(1306)年」と銘が入った「嘉元鐘(国重文)」です。寄進者の筆頭は北条貞時で、刻まれた銘文は、円覚寺(鎌倉)のそれと同文の由。

 

                           (青竹:NO.3711)