弘前城の東門を出ると、文化センター前に、津軽藩祖:津軽為信の像が建っています。雄々しい姿です。

 

津軽の地は、もともと南部氏の支配地でした。当時の大浦為信は南部氏の支配下にあり、養子先の大浦城にいました。大浦氏の祖は藤原氏で、かつては津軽6郡を支配していたといいます。

南部氏の支配を脱し、津軽の覇者たるを志す為信は、元亀2年(1571)5月、石川(南部)高信の居城・石川城を奇襲し、これを落とします。

 

そして次々と津軽の諸城を落とし、津軽の覇者となりました。

天正18年(1590)、秀吉の小田原攻めが始まると、為信は、僅かな家臣と共に海路を(陸路は南部家領を通るので危険)小田原入り。秀吉に謁し、念願の「津軽安堵の朱印状」を得ました。

 

更に、秀吉の命を受けた前田利家などの「検地団」が来訪。津軽家の所領を「4万5千石」としました。

 

関ヶ原の戦い後の加増で「4万7千石」とした為信は、高岡の地名を「弘前」と改称し、弘前城の築城を開始します。

                          (青竹:NO.3706)