加賀藩前田家第2代:前田利長が隠居城として、高山右近に命じて築城させた「高岡古城」です。利長没後、「一国一城令」に従って廃城とされ、天守閣や櫓があるわけではありませんが、現在も当時の濠や土塁の形状を良く残していることから、「日本名城100選」に選ばれています。

 

城は、庄川扇状地帯の一段丘上に築かれ、約21万㎡もの広大な面積を持ち、約6万7千㎡の水濠を有しています。

 

なお利長は、地名を、関野から高岡に改称しています。越中国80万石のうち、富山藩前田分家は、僅か10万石で、高岡エリアについては、利長没後も加賀藩前田家本藩が、産業振興などに配慮しました。今も高岡では、加賀藩前田家本藩の影響を色濃く残しています。

 

此処は西外濠で、前方の橋は「本丸橋」です。現在は住宅地の一帯ですが、かつては湿地帯で、城を自然に防御していました。

 

本丸橋を渡り、古城公園内に入ります。樹木が鬱蒼と茂っています。

 

司馬さんの「城塞」から、

・・・・・・関ヶ原の戦いのときは前田家は家康に味方し、・・・、戦後、百十九万石という途方もない大封の家になった。

・・・・・・(挨拶に江戸城に登城した)・・・・・・

やがて利長の場からは見霞むばかりの遠い上段の間で太刀持ちを連れて現れ、ゆるりと着座した。せがれの秀忠がである。・・・・・・

利長は平伏させられ、平伏しながら、詐略にかかったような不快と屈辱に身がふるえる思いであった。

「利長。このときはくやしき事に思われとぞ聞こえし」と、後の徳川家の儒官である白石は書いている。

「利長は、それより後は、養子の利常に家を譲り、自分は引きこもって再びは関東へ来なかった」と、白石は言う。

・・・・・・利長は、領内の越中高岡に隠居城を築いてそこにいた。・・・・・・

 

当に、古城です。

 

大仏側の「駐春橋」です。少し華やいでいます。

 

公園内は、博物館、動物園、スポーツセンターなどもあります。

 

濠などは、利長の時代のままのようです。

 

                                         (青竹:NO.3678)