高岡といえば、この人。加賀前田家第2代:前田利長公です。この像は、国宝:瑞龍寺の参道に立っています。

 

利長公は隠居後、富山城へ入城しました。ところが、慶長14年(1609)、富山城は焼失してしまいます。そこで一旦は魚津城へ移り、幕府の許可を得て、関野(現:高岡市)の地に新たに築城をすることとしました。

 

縄を張ったのは、かの「高山右近」です。右近は、築城家としても著名でした。高岡城は、本丸のほか、鍛冶丸、二の丸、明丸、三の丸から成り、堀は、本丸西側は1重ですが他は2重でした。

 

「関野」の地名は、築城決定後、「高岡」と改称されました。今も、駅前の古社を「高岡関野神社」というように、随所に、関野という名称は残っています。

 

司馬さんが利長公について語っている場面です(「城塞」から)。

 

利長は、いま越中高岡城に隠居し、晩年を迎えている。彼は父利家の盛名が華やかであるため、それに隠れて、世間も彼の名前についてはさほどの評判を立てていないが、あるいは利家以上の人物であろう。

 

彼の戦歴から見れば戦場では十分に勇者であったし、のち家政を統裁するようになってからも、父の代以上に膨張した百万石の家政を良く統裁した。・・・・・・

 

 

 

およそ、百万石を得るよりも、百万石を守っていく方が難しい。前田家は、利家の頃は、約80万石でしたが、利長と第3代:利常の二人で、120万石と、関ヶ原の戦いを経て、あの難しい時代に1.5倍にまで増やしています。

 

ここから瑞龍寺と反対側へ1Kmほど行くと「前田利長墓所(富山県史跡)」がありますが、当初の墓域が何と約15万㎡(現在は約1万1千㎡)もあるから凄い、勿論武将の墓所で全国第1位です。

 

利長が亡くなったのは1614年で高岡城入城5年後のことでした。その三十三回忌に際し、前田利常は、金沢から戸室石を運び、基壇の格狭間を飾る蓮華の下絵を狩野探幽に描かせたと伝えられます。

 

基壇の前面には大きな石灯篭が並び、墓頭の高さは実に11.75mとのこと。墓所には、5人の「火灯し人」と18人の「掃除人」をおき、扶持米90石を与えたといわれています。

 

利長という人物は、前田家にとって、それほどの人物でした。

 

現在、笠付墓標には「贈正二位行権大納言肥前守菅原朝臣利長之墓」と彫られています。これは、明治11年に彫り直されたものとのこと。つまり豊臣氏について見直しを行った明治政府が彫り直したもので、その意義は大きいと思われます。

 

 

                                         (青竹:NO.3674)