富山城址公園から県庁側へ向かうと、旧神通川の舟橋跡があり、「松川遊覧船」が発着し「常夜灯」が残されています。

 

約100年前までは、現在の富山市街地は神通川の川底でした。そしてもともとの神通川は、現在の市街地の遥か西側を流れていました。その後、暴れ川は何度か流路を変え、佐々成政が城主の頃、富山城下に一気に流れ込み、市街地を水びたしにしました。

 

成政は治水工事を施し、城の北側に神通川を流し外堀としました。

 

余りの急流に、北陸街道は神通川を渡河出来ず、川の両側(約250m)には「舟橋」が掛けられました。64艘もの舟が鉄鎖で繋がれ、舟の上には3枚の板(後に5枚に増やされた)が敷かれたといいます。

 

川の袂には茶店が出来、富山名物「鮎のなれ寿司」が振る舞われました。後の「鱒寿司」の原型です。

 

寛政11年に、富山町年寄:内山権右衛門が寄進したと言われる「常夜灯」です。暴れ川への転落事故防止の設備です。

 

明治16年に神通橋が架橋されるまで、舟橋の時代は続きました。また神通川は、もとの西部エリアへ付け替え工事が実施され、現在の富山市街地が整備されました。

 

現在の松川は市民の憩いの緑地帯となり、松川に架かる7つの橋を巡る「松川遊覧船」が運航されています。

 

左が県庁、右が城址公園です。

 

                                             (青竹:NO.3656)