応仁の乱で京が荒れ果てたとき、高級公卿は、こぞって「西の京山口」を目指しました。当時、多くの守護大名が在京しており、京の荒廃と運命を共にしていましたが、東の今川と西の大内は、それぞれ反対勢力との最前線にあったため、在郷しており軍事力も確保していました。

 

応仁の乱は、細川勝元vs山名宗全で始まりますが、直ぐ行き詰まり、大内氏の大軍の到来は、戦線を大きく動かします。

 

そんな大内氏の創始者ともいえる「大内弘世」像が、香山公園の中心に建っています。

大内弘世は南北朝期の防長両国ほかの守護。後の大内氏繁栄の基礎を構築しました。

 

九州探題の斯波氏そして今川氏を支援し、九州の南朝方と戦いました。上洛して足利義詮に謁見、その富裕ぶりを示しました。本拠地を、本貫地の大内から山口へ移転しました。

 

大内氏は、弘世→義弘→盛見→●→政弘(応仁の乱の時期)→義興(管領代)と繁栄を続け、次の「大内義隆」のときに、突然、家臣の陶晴賢の反乱で、弘治3年(1557)に滅亡します。

 

陶晴賢は、「厳島の戦い」で元就に敗れ、毛利氏の時代となります。

                                            (青竹:NO.3435)