関ヶ原の戦いに敗れた毛利家は、日本海側の萩を居城地に定められたため、大内氏の時代に「西の京」とまで謳われた山口は、萩と三田尻を結ぶ萩往還に沿う「一寒村」に落ちていました。

 

しかし、幕末の風雲急を告げる文久3年(1863)12月、長州藩は、藩庁を山口に移します。山口政治堂(山口藩庁)です。

藩主:毛利敬親も萩から山口へ拠点を移し、翌文久4年には、御屋形と呼ばれる居館も建設します。

 

文久3年とは、「八月十八日の政変」があった年で、七卿落ち、翌年には、池田屋事件、そして蛤御門の変と、事件が続きます。

 

その「山口藩庁の正門」が此の門です。蛤御門の変の後の「第1次長州征伐」により、山口政治堂は破却させられましたが、正門は残り、維新後に、山口県庁の正門となります。

 

流石に、確りした由緒正しき正門です。

 

一帯には、当時としては最先端の西洋式の城郭が建設されました。

 

 

 

                                         (青竹:NO.3431)