神明町(綾小路通り、高倉から東洞院の間)に鎮座する「神明神社」です。平安末期の近衛天皇の御世、しばしば「皇居」とされた、摂政・藤原忠通の屋敷跡です。「四条内裏」とも「四条東洞院内裡」とも言われた屋敷で、その邸内にあった鎮守の社です。

 

神仏分離の前は、「護国山立願寺円光院」というお寺の管理でしたが、神仏分離後は、神社だけが残され、神明町が管理されています。榎の大木があったので、「榎神明」とも呼ばれました。

 

戦後は、「文子天満宮」が合祀されました。文子さんは、道真公所縁の、北野天満宮創設の功労者です。

 

「鵺退治」の源三位頼政ゆかりの奉納「弓箭(やじり2本)」が残されています。「鵺(ぬえ)」とは、頭は猿、尾は蛇、手足は虎という怪獣です。近衛天皇の時代に、夜な夜な、都の人々を騒がせた怪獣です。

 

今は、静かな神社です。

 

                                             (青竹:NO.3198)