伊予8藩で最初の大洲藩校「止善書院明倫堂」跡碑です。

大洲藩加藤家第5代加藤泰温(やすあつ)公が開校を命じ、第6代加藤泰怜(やすみち)公のとき、延享4年(1747)に開校しました。

 

 

大洲藩は四国でも有数の「進歩的」な藩で、龍馬の「いろは丸事件」で有名な「いろは丸」は、大洲藩所有の英国製蒸気船でした。海援隊に貸し出されていましたが、蒸気機関のほかマスト3本を有し、帆走も可能な船でした。

 

紀州藩所有の明光丸と衝突し、沈没しました。龍馬は、事故の補償に関して、御三家の一紀州藩を相手に堂々と論争し、多額の賠償金を獲得しています。

 

この結果が、龍馬暗殺事件の原因になったとの説もあります。

 

                                      (青竹:NO.2947)