慶應4年(1868)5月15日早暁。「上野戦争」の戦端が開かれ、夕刻までには「彰義隊」の敗色が濃厚となりました。「大村益次郎(村田蔵六)」をして天才と成し、靖国神社の入り口に巨大な「大村益次郎像」を建立させ、司馬遼太郎をして名作「花神」を書かせた「上野戦争」。当時は、新政府軍の敗色が濃かったこの戦争を、本郷台地(加賀前田屋敷)に設置した数台のアームストロング砲を駆使して、わずか一日で”完全勝利”に導きました。

 

 

彰義隊の逃亡後、上野台地には敗れた隊士の亡骸が散乱していました。会津戦争などの例では、新政府軍は敗者の亡骸埋葬を認めず、かなりの長期間にわたり、腐敗しそのまま放置されていました。ところが、円通寺第23世住職仏磨和尚は、果敢にも隊士の亡骸を集め弔い自寺に埋葬したのです。

 

 

明治の世となり、世の中が落ち着いて来、上野戦争では最大の激戦地であった「旧寛永寺の黒門」が当寺へ移築されました。我々も参拝時に見ることが出来ます。「弾痕」が幾つものこされており、いかに激戦であったかが実感出来ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

八幡太郎義家が奥州征伐のときに討ち取った「48の首級」が葬られた首塚です。「小塚原の名称の由縁」と書かれています。

 

 

 

巨大な金色に輝く「観音立像」が印象的な「本堂」です。

 

 

 

 

 

寺の創建は、延暦10年(791)に坂上田村麻呂によるとされています。清水寺よりも少し古いことになります。

 

 

 

 

 

 

 

                                  (青竹:NO.2505)