8代将軍/足利義政の”後継者争い”に管領2家(畠山家と斯波家)の”後継者争い”が微妙に絡み、いよいよ「応仁・文明の乱」が勃発しました(1467年)。「応仁の乱」は11年も続いたといわれますが、「応仁」は2年で終わり、元号は「文明」に変わるので、11年の「乱」の殆どは「文明」と言われる元号のことになります。

 

 

文正2年(1467)1月18日、義就との”畠山家の家督争い”に劣勢だった畠山政長は、此処「御霊神社の森」に陣を構えていました。一方の畠山義就は、山名持豊や将軍義政の支援を受け、斯波義廉と力を合わせて、政長の陣を攻撃。政長軍を敗走させました。

 

「応仁の乱」の勃発です。このとき、細川勝元は義政の指示に従い、戦闘には参加しませんでした。この日の戦闘は、山名・義就軍の圧勝で、政長は、細川勝元邸へ逃げ込みました。

 

 

 

 

「御霊神社」は、桓武帝の弟(早良親王)を始め”奈良時代から平安初期にかけて政争に敗れた人々の御霊”を祀る神社で、「応仁の乱」のような”大乱”勃発地になったのは、皮肉なことです。

 

 

 

 

 

 

                                             (青竹:2061)