”五摂家筆頭の近衛”邸にて、御所内/今出川御門の近くですが、明治維新から150年経った今も、見事な枝垂れ桜が咲きます。

 

近衛家の有名人を思い出しながら、じっくりと、ご鑑賞下さい。

 

 

 

”五摂家”と言いながら、藤原北家は、近衛・九条の2流です。鷹司家は近衛家から分流し、二条家、一条家は、九条家から分流しました。

 

 

まずは”近衛前久(さきひさ)”。

 

戦国から安土桃山期の関白・左大臣ですが、単なる高級公家に飽き足らず、謀略の限りを尽くしました。本能寺の変の黒幕との説もあります。

 

上杉謙信とは”盟約を結んだ仲”。実際に、越後、上野、上総などにも赴きました。信長や足利義昭とは、付いたり離れたり、本能寺の変の後は、出家もしています。秀吉とは合わず、家康を頼ったりもしました。

 

一流の武術も会得しつつ、青蓮院流の書家でもある文化人でした。

 

 

 

 

 

 

次に”近衛文麿”。

 

昭和12年には首相として「第1次近衛内閣」を組閣。その翌年「盧溝橋事件」が勃発し、日中戦争へ突入。

和平交渉に失敗して泥沼化しました。

 

昭和16年7月には「第3次近衛内閣」も組閣しましたが、日米関係が破局し総辞職しました。戦後、”戦犯指名”を受け自決。

 

 

”前久”といい、”文麿”といい、大変な時期のトップでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

幕末期に、公武合体派の公家として活躍した人物に”近衛忠煕(ただひろ)”がいます。

 

安政4年に左大臣に就任していますから、”条約勅許問題”で揺れている時期の朝廷側トップでした。将軍承継問題では「一橋派」に組したので、安政の大獄に連座し、「辞官・蟄居」となりました。

 

文久2年(1862)には還俗し、関白・内覧となりましたが、王政復古にあたり、公武合体派として参朝差し止めとなり、隠居しました。

 

 

 

 

源平期の”近衛基通(もとみち)”。

 

養母は清盛の娘盛子。清盛の娘婿でもあり、治承3年(1179)には、氏長者・関白に就任しました。しかし、源氏の台頭とともに不安定な人生を送ることとなりました。

 

 

 

 

流石に”近衛家”。殆どの時代に、関白や左大臣を輩出しています。

 

それにしても、見事な枝垂れ桜です。