長きにわたり日本史の中心に位置した「京都御所」です。”第50代:桓武天皇”から””第122代:明治天皇”まで、実に「73代」の天皇が、この地で即位され(桓武天皇の即位は平城京ですが)政を行われてこられました。
御所のなかでも「最も高い格式の正殿」が「紫宸殿」です。流れる空気から、異質なものでした。
「日華門」から見る「紫宸殿」です。
紫宸殿南庭の東の門が「日華門」で、西の門が「月華門」です。
平安時代中期から、”天皇の日常的なお住まい”だった「清涼殿」です。
政事・祭事などの重要儀式も、此処で行われました。ただ、天正18年(1590)以降は、天皇の日常的なお住まいの場所は「御常御殿」に移りました。
*道真公が太宰権師に流罪となった後、その政敵である藤原時平らが、この清涼殿に落ちた雷に撃たれて亡くなった事件は、”天神信仰”の基となりました。
現在の建物は、安政2年(1855)の建築です。建築様式は、平安中期のものが踏襲されています。
「荒海障子」など、珍しい様式が、見ものです。
御所内の回遊式庭園「御池庭(おいけにわ)」です。
この橋は「欅橋」と呼ばれています。
やんごとなき庭園ですね。
「小御所」です。
此処で慶應3年(1867)12月9日の夜に”王政復古の具体化”が話し合われた「小御所会議」は有名です。
「王政復古」により、摂政・関白・征夷大将軍などの役は廃止され、「総裁・議定・参与」の三職が置かれていました。テーマとなった「徳川慶喜の扱い」について、容堂は「朝議に参加させるよう」要請しましたが、岩倉が先頭に立って反対。「400万石のうち200万石を納土しなければ、朝敵として討伐すべし(辞官納土論)」を主張。西郷・大久保の「強硬論(=容堂を刺し殺してでも辞官納土論を貫く」が会議の結論になりました。
「御常御殿」です。天皇が日常生活をされていました。
「御常御殿」前の「御内庭」です。
曲折した鑓水を流し、所々に土橋や石橋を架し、灯籠や庭石が配されています。
「皇后宮常御殿」。その奥に「若宮・姫宮御殿」などがあります。
現在、皇室が京都へ来られたときは「大宮御所」に宿泊されます。






























