東西で競い合うように、力の籠った展覧会が開催中です。まずは、京都国博の「国宝展」、そして、東京国博の「運慶展」です。

 

日本で最も有名な仏師といえる「運慶」。平安から鎌倉にかけての”動乱の時代(貴族の世から武士の世への変遷期)”に生きた運慶は、平家の南都焼き討ちにより荒廃した興福寺や東大寺の復興に貢献しつつも、新興勢力である東国武士からの注文も受けます。

 

生涯で多くの仏像を造ったと思われますが、現在の研究では「31体」説が有力です。

 

運慶と関係が深い「興福寺中金堂の約300年振りの再建」を来年に控え、(31体のうちの)「22体」が集結する、当に、「史上最大の運慶展」となりました。

 

 

 

 

毘沙門天立像(国宝):願成就院(伊豆)

  願成就院は、初代執権:北条時政が、主君(であり娘婿の)頼朝の長寿と北条氏の子孫繁栄を祈願して建立した寺。運慶は、造像プロデュースを担当しました。運慶が東国で初めて造った仏像といわれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

●八大童子立像のうち「制多伽童子」:金剛峯寺(高野山)(国宝)

  運慶、青年時代の傑作「八大童子」です。運慶の作といわれる「6体」が展示されています。張りのある肉付き、玉眼の効果を含む微妙な表情、翻る衣やはらむ天衣の動きも自然で生きているようです。

 

  八大童子のなかでも、この「制多伽童子立像」は、特に肉感豊かで玉眼による聡明さが

顕著です。髪を5束に束ねた姿は、運慶ならではの姿です。

 

 

 

 

●無着菩薩立像:興福寺北円堂(国宝)

  興福寺北円堂で何度も拝観した、お馴染みの立像です。日本史の教科書でも、お馴染みです。

  治元2年(1208)南都焼き討ち後の北円堂の再建が開始され、運慶は、総責任者となりました。この「無着菩薩立像」は、像高約2m。像としては高過ぎるともいえますが、先人の偉大さ、圧倒的存在感を表現したものと言われています。

 

  無着上人は、5世紀頃インドに実在した学僧です。弟の「世親」とともに、法相宗の教理を大成しました。

 

 

 

世親菩薩立像:興福寺北円堂(国宝)

  兄の無着像が、やや憂いを帯びつつも、崇高な理念を叶えんとする深い精神性を有しているのに比し、眉根を寄せて遠くを凝視しつつ、こちらも、崇高な理念を叶えんとする強い意思を感じさせます。

 

 

 

 

●重源上人坐像:東大寺、国宝

  南都焼き討ちで焼失した東大寺の再建に尽力した重源上人の姿を克明に描写した傑作です。上人の人柄までもが偲ばれる像です。

 

 

 

 

 

 

八大童子立像のうち「恵喜童子立像」

  

 

 

「八大童子立像」の残りの4体です。

 

 

 

地蔵菩薩坐像:六波羅密寺(重文)

  流動感に富む衣文や堂々とした体躯が特徴的です。京都に残存する唯一の運慶作品ですが、「一木造り」は、運慶としては、やや異質です。

 

 

 

不動明王:願成就院(国宝)

  斬新さと迫力に満ち溢れた作品です。がっしりと逞しい両肩から腕にかけての造形が

  特に見事です。

 

 

 

 

聖観音菩薩立像:三河岡崎「瀧山寺」(重文、寺外初公開)

  頼朝の3回忌に造られた像で、頼朝と”等身大”。

   像内に、頼朝の”鬢と歯”を納めました。彩色は、明治になってからのものです。

 

 

 

四天王立像:興福寺南円堂(国宝)

  現在は「南円堂」に安置されていますが、弥勒菩薩坐像を”本尊”とする「北円堂」にあったとする説が有力になりつつあります。だとすれば、北円堂の復興に尽力した運慶作の可能性が強まったといえましょう。