真っ先に。
これは私自身のへそ曲がりな感性をそのまんま残しています。
なので、気分を害した時はその時点でこのページを閉じていただくようお願いします。
「今」の感性で思っていることをそのまんま残す意味で、「ああするべき」とか「こうするべき」などという提議の意味も含めません。
将来。いや、明日にでも考え方が変わっているかもしれない今の思いを綴ることが目的でであり、将来読み返したときに、私自身が「こんなことを思ってやがったのか」と振り返るための記録なので。
と言うワケで。
自ら命を絶つ行為。
これが全人口を分母にして「歯止めが掛かっている」のだろうか。
原因の理由付けは「上手くいかない」「イジメ」などとあるなかで、しかし、原因そのものはたったひとつに行き着いている。
自分の力だけでは立ち直れない。
だから「いのちのでんわ」なりのPRも関連した話題によく見かけるようになった。
つまり、根本的な原因にはみんな気がついている。
その原因を元に内容が違うだけだと。
その事柄を解決しようとしても、なんの解決にもならない。
『解決になってないじゃん』が、いつまでたってもココから先に進まない。
イジメという内容を解決しようとしても、根本たる「自力での解決が無理」な事には「相談して」から変わっているだろうかってね。
イジメはダメと、加害(行為)をどれほど窘めても無くならない。
むしろ隠蔽の知恵や技術のレベルを上げているだけで。
そんな被害者に相談してと言って、『相談出来ない』から自己完結を選んでしまう。
これこそが根本的な問題としてたどり着いている答え。
変わるべきは相談してのあり方で、相談することが間違っているわけじゃない。
だから、本当は「相談出来ない事」に気がついている上で、それを相談してくださいと言ってなにかが変わっただろうか。変わってない。なのです。
相談出来る『環境を作る』その経緯に、イジメ自体の件数を見ること、借金苦の件数なりでも見るところが間違っている。
これが減った理由が《相談して救済された》と必ずしもイコールではない問題。
問題に対して、検証する部分が違うということ。
見なければいけないのは『相談件数』のはずで。
減るのでは無く、増えるはずなのだ。
相談出来る環境が整っているから相談してくる。だから増える。
救済はイジメや借金と言った内容では無く、相談者の命を救済できたか。これが答えになるはずなのに、的がズレている。
解決できた事実は口コミに広まっていく。
救済された人が、相談して良かったよ。って言う事に、弊害などあるはずが無い。しかし無いのが現状。
救われている人がいるのだろうか?なんて疑問が残るくらい救済されたハナシが出てこない不思議の答えがみつからない。
実際に救われた人を広告にしろ、ではない。
でも、出所不明な都市伝説のように広まらないのは、救われた人は他人の苦悩に救いを差し伸べないのか。
ほら、なんか嫌な妄想に方向が定まってしまう憤り。
助けるなんて漠然とした言葉では、正直その相手を信用なんて出来ない。
いや違う。
信用ではなく『救われる道が見えない』のです。
《助けるってどうやって?》
この答えが見えないのだから、そもそも相談が「出来ない」。
んー、ここの解釈は、タブン難しいと思う。
自分がそんな窮地になった体験をしなければ理解できない疑問かもしれない。
ここに相談すれば、まずはイジメっ子達から隔離する事を優先して、話し合いはその次だ。とりあえずガードマンのように護衛を付けるでもいいや。
この優先が現状逆に思う。
苦悩の内容はそのまま継続しながら相談して話し合って・・・その間も行為は続いている。なら、行為から隔離する方が優先だろうってならない不思議。
そう、これも変わらないと思う部分。
《早く助けて》の願望に叶わない対応しか想像出来ないところに相談するよりも手っ取り早い逃げの手段があるじゃないか。そう、命を捨てること。
早期解決に対して、苦悩からの解放を望んでいるのにいつまで続くこの苦労?
この解釈と流れが完全にズレていると感じる。
ただでさえ、ヒトは楽な方の選択肢を選んでしまうのですよ。
「相談して話し合ってうんたらかんたらとまだ続く苦悩」と、「明日にでも終わる苦悩からの解放」。
どっちをえらびますか?ねぇ。
これじゃあそもそもの「命を捨てる事の解決にはならない」対応をして、どうして無くならないのかと悩んでいる滑稽に気がついた方がいい。
それを見ている状況は啓蒙が増えただけでそれ以外の部分がなにも変わっていない。
唯一変わった部分が改善に機能していない。
まだ気付かないのかと憤るほどに変わっていない。
相談出来る環境ってなんだろう。
親しすぎて迷惑を掛ける事を懸念して相談しない。
追いつめられてなおそんな思いやりに隠れた悩みを解決できるナニカが必要なのではなかろうか。
気付いてあげる。
おそらく、そんな勘のいいヒトからは、交流の機会が減っているはず。だって気付かれちゃうもん。そしたら心配されちゃうもん。
ちいさな変化はあるはず。
「ちょっとやな事あったんだよね~」
突然切り出される話題に困惑することもある。突然すぎて求める答えに気がつけないことも。
『励ましてほしい』のではなく『救い上げてほしい』この違いは大きく異なる。
崖から落ちそうな所を「もうちょっとがんばれ」と励ます応援と、手を差し伸べて「引き上げる助力」は、印章も大きく異なるように。
おそらく、命を捨てた人は後者の救いを求めていたのではないだろうか。
それを勘違いしたから、残された人は「どうして・・・」と理由に悩む。
そして「相談して」では、救いとは思えない現状。
この思いを変えてやる変化がない。
いまだもって「一人で悩まず相談を」で、どう救われるのか。
死の選択肢など見えていない私でも想像が付かない救いに踏みとどまる事ができるのだろうか。
すくなくとも、私がそんな状況になったら相談しようと思える相手はいない。信頼ではなく、救済手段として。
なにをどう助けてくれるんだろう?という[不安が先立つ]から、相談前に相談することを踏みとどまってしまう。
悪循環。負のスパイラル。
これから抜け出すには、自分だけの判断では無理だ。
すくなくとも、救われる印象という別の力が必要なのだ。それを示せるのは自分以外の誰かであって。
ざんねんながら、私はそんな仙人みたいことは出来ない力不足。
「ここをなんとかすれば」と気付いているところに、いわゆる痒いところに手が届かない憤りも含めて。
煮え切らない気持ちをなんとかしたい今日この頃。